偽りの婚姻⑥
その日、日も出ぬ内から白鳥と河津は港へと駆り出された。いつ何時、八之介が来ても良いようにだ。
明け方の海辺は寒気に包まれ、吐く息が白い。風を避けるように船の裏側に逃げ込んではいるものの、身を切るような冷たさを防げるわけではない。
何度も手に息を吐きかけ、擦り合わせるものの、それほど大きな効果はない。二人とも無様に歯を打ち鳴らし、氷のような感触の手で己の体を抱いた。
「そ、それで、あの鉄貨のしょ、正体は、分かったんですか?」
「ああ、あ、あいつは、あ、新しい、意匠の、ちゅ、鋳貨、だった」
「ま、まだ流通していない、金、だったんですか?」
河津が何度も頷いた。その拍子に鋭い風が吹き抜けて、二人は身を縮こめた。 口から入る空気でさえも恐ろしく、虚空を最小限にしようと口をつぐんだ。
途端に波の砕ける音が大きくなり、それを掻き分けるようにして、いつもと変わらぬ様子の平野が現れた。手には徳利を持っている。まるで馬鹿げた犬のように河津が近付くと、彼女は冷然と睨み据えた。
「来たか?」
「お、おお、お嬢、そ、それより……」
かじかむ手を河津が伸ばした。しかし平野は、その手を避けて、動く余力もなく固まっている白鳥に、その徳利を投げた。緩い放物線を描いて腕の中に収まった徳利は人肌よりもほのかに温かく、それを抱きしめると、体の芯から活力が蘇る。白鳥は深々と溜息をついて、蓋を開けた。
「あっ! てめえ、先輩が先だろうが」
という河津を他所に、軽く一杯煽る。口内に甘ったるい香りが突き抜け、次いでほとばしるような温かさが広がった。飲み干した途端に体の芯がじんわりと温まって、白鳥は大きく一つ震えた。
「で、首尾は?」
冷厳な様子で平野が問うた頃には、河津に徳利を奪われている。彼は勢いよく中身を飲み下して、この偉大なる主に対して、恭しく頭を下げた。
「まだ、来ておりませんな」
「時間は無駄にしないなんですけどねえ」
もしかしたら来ないだろうか? と白鳥が首をかしげると、冷厳な顔を一切緩めることなく、平野は鼻を鳴らした。彼女の方にも寒さがやってきたらしい。頬や鼻の頭が赤く染まり、半ば抱くようにして腕を組んでいる。その縮こまった平野に、どこか滑稽な印象を抱きつつ、白鳥は顔を綻ばせた。
「何だ?」
平野が怪訝な顔を向けてきた。いつもと同じように厳しい顔つきに見えはするが、その実、寒さを堪えているのだと思うと、それほどの恐ろしさはやってこない。
「いいえ、何でも」
白鳥は首を振り、このおかしさはあとにとっておこうと思った。今や彼の体には多少の酔いと、込み上げてきた笑いを堪えたことによる熱とが渦巻いていた。 先ほどよりも寒さは遠ざけられ、より熱心に水平線に目を凝らすことが出来た。
東の空が白み始めると、徐々に空気も熱を持ち、明け方の冷たさは和らいでいく。視界だって明瞭になる。市中を目指す船の列が段々と海原に浮かびあがり、それに比例するように港の方も騒がしくなる。港湾労働者達が桟橋に散って、辺りにひと気が訪れた。
「こんな状況で分かるもんですか?」
白鳥が問うと、辺りを一瞥した平野が、そっけなく頷いた。
「ああ、目当ての船はここに来る。私達の目の前にだ」
そう言って、港の空いた空間を指差した。確かにその辺りはがらんどうで、船の一隻や二隻も停まれるだろうが、何故そんなことが分かるというのだろう。
すると、勝ち誇ったように平野が口の端を歪め、懐から、あの丁稚から受け取った鉄貨を取り出した。
「こいつだ。来年から新たに流通する予定の鉄貨」
「……ええ、見ました」
「今はその準備段階だ。来年のために製造している最中。だから一般市民には秘密だし、ましてや外に持ち出すようなことは出来ない……」
「でも、八之介は現に持ち出しましたよ?」
「……可能性は二つだ。この鋳貨を持つ可能性があるのは、財政を司る勝手方の人間か、もしくは実際に製造している人間か」
「作る……?」
この貨幣の問題は、中津国では重要事の一つと捉えられている。
なにしろこれがなければ円滑に物が流れない。商品の価値を金属貨幣に転用することによって津々浦々で商売が出来るのだ。
世の中には信用なんてものはあまり無くって、そのために多くの貴金属を貨幣に注ぎこまねばならない。国内の資源は有限なのだから、無駄なことには使えないのである。それ故の関心だ。
「鋳造された貨幣を持ちだされないよう、中津国では海に浮かぶ名もなき離れ小島に鋳造所を建てた。そこでは貨幣鋳造に携わる特殊な家の人間の他に、遠島を申しつけられた鍛冶師や鋳物師などが住まうことがあるという」
彼らは月に一度、市中での休みを与えられるそうだ、と平野が冷たい声で続けた。
なるほど、八之介はその点で合致する人物だ。彼の前職は鍛冶師で、遠島の刑に処された。彼の行き先が、その鋳造所であっても不自然はない。そしてそこに従事しているならば、金属を得ることは容易である。
口をつぐんだ平野の方を見る。彼女の顔は曙光に照らされて、いやに眩しく映った。そしてその顔が僅かな驚きに染め上げられると、白鳥も視線を転じた。
遠くから船が近づいてきていた。離れ小島から来たことが分かるよう、島の名前が帆に描かれている。その船は見る見るうちに速度を落とし、やがてゆっくりと三人の目の前で止まった。彼らからすれば、ひと月ぶりの休息だ。一分だって無駄にしたくはないだろう。
その慌ただしいさなかに、平野の冷たい声が轟いた。
「この中に八之介はいるか?」
男達は怪訝な顔をしていたものの、町奉行所の証である印籠を見せつければ、すぐに要求に応じてくれた。
船べりに、よく日に焼けた、若い男が顔を覗かせた。