出来の悪い殺人③
そこには美しい着物に身を包んだ、喪心する女の姿があった。
藤助の妻であるという。着物の質は良いにもかかわらず、着ている女の方は痩せ細っている。思った以上に貧相な体格であったから、商人の息子として白鳥は眉をひそめた。内実はどうあれ、外見だけはよく見せなければ店としては失格だ。
「この度は御愁傷様です」
何の役に立つのかも分からないが、平野と河津が頭を下げたので、慌てて白鳥も同じくした。藤助の妻は、ちょっとだけ色っぽい仕草で頷いて、ふいと窓の外の月を見上げた。その横顔に月光が差し、白鳥は眉間にしわを寄せて河津に耳打ちをした。
「奥さん、怪我してませんか?」
「そうか? 犯人ともみ合ったとか?」
「そんなこと一言も言っていませんでしたよ」
という男達の会話をよそに、平野は尋問を始めていた。
「御主人を殺した人間に心当たりは?」
「ありません」
「犯行時刻、あなたはどちらに?」
「この部屋で、床の準備をしておりました」
「その格好で?」
平野が目をひんむいたのも無理はない。寝るというのなら寝間着に着替えるのが普通であるが、この妻は昼に街をぶらついても可笑しくない格好であるのだから。
「ええ、主人が眠るまでは、このままで居ります」
その言葉に平野が困惑していた。まあ、女であるならばともかく、妻となった身の上であれば、そういう理不尽もあるかもしれない。白鳥は髭も生えない顎を撫でて、ちらと河津を見やった。
平野が勁烈な印象であるからか、この男には親近感が湧く。妻の胸中に悲しげに目を細める姿など、どこか哀愁を感じるほどだ。鞭の平野に飴の河津。その意味をまだ白鳥は知らなかったけれども、しかし二人を見ていれば大体は想像がついた。
「今晩、御主人が人と会う予定などは?」
「ありません。突然、戸が叩かれて、主人が見に行ったんです。それで悲鳴が聞こえたから――」
「裏口まで犯人を追いかけて、閂をして悲鳴を上げた、と」
険のある声を平野が上げた。何よりその発言に妻の方が目をひんむいて、感情的になった。
「どういう意味です!」
「それはともかくとして、どこの戸が叩かれたんだ?」
「……裏口です」
「では、御主人と犯人は裏口から表の土間に回って、そこで事件が起こったというのか?」
妻が、今にも泣きそうな顔をした。この女――平野が何を言いたいのか、全く分からなかったのだ。縋るように河津と白鳥を見て、女らしいか弱い仕草で顔を覆った。
平野が困惑した顔で河津を見ている。どうやら、そこで河津に交代して、話を聞き出すというのが常套手段であるらしい。
だが、今日、この日に限っては違った。平野が指示を出したのは白鳥だったのだ。無言のうちに指名されていることに気が付いて、白鳥は思わず河津を見た。
しかし、この気の良い中年の男も、無言で頷くばかりだ。
であるから、白鳥は深々と溜息をついて帳簿に視線を落とした。
「えーと、奥さん。ちょっと顔を上げてください」
存外素直に妻が顔をあげた。その面上は涙で濡れていて、心根の優しい河津はおろか、白鳥でさえ動揺しかけていた。平野はこういう悲しげな顔をした女を追い詰めていたのだ。
「その、ちょっとお聞きしたいんですが、御主人が台所に入ったりすることはありますか?」
「いいえ、女の領分だからと近づきません」
「でも、台所から包丁が一本、なくなっているんです」
そう言った途端に妻の顔が歪んだのが見てとれて、白鳥は地雷を踏んだと確信した。
今度こそ彼女はわっと泣き出して、畳に突っ伏したまま起き上がってはこなかった。この烈火の如き慟哭に、仕方なしに第二八番隊の面子は顔を寄せ集めた。
「泣かせたのはお前だぞ」
「止めてくださいよ。直前まで持って行ったのはあなたですよ」
「まあまあ、白鳥は何が言いたかったんだ?」
河津に仲裁されて、白鳥は咳払いをした。
「あの奥さん、裸にひんむけないですかね」
「何を言っているんだ!」
河津が傷ついた顔をしたが、けれども平野の方も同意した。
「確かに。痣がある」
「あと、彼女の寝巻も見た方が良いですよ。やっぱり、眠る直前にあんな綺麗な服を着ているのはおかしいです」
「……あんた達は冷酷だよ」
またしても河津が悪態をついたところで、妻の声がやんだ。三人は同時に振り返り、月光に晒された彼女の面上に恐れを抱いた。
その時だった。またしても同心の一人が飛び込んできて、平野の前で膝をついた。役職上は同格であるはずなのだが、どうにも彼女は誰かに平伏されている姿が似合うのだ。
「多嶋屋金之丞を逮捕したしました」
この冷徹な声を聞くに至って、妻が愕然とした顔をした。
この金之丞なる人物、白鳥が帳簿の中から見出した、藤助から被害を受けていた一人である。同心達が店に向かったところ、勝手口付近で血まみれの包丁を握っている姿で発見され、逮捕に至ったのだそうだ。
それを聞いて、白鳥と河津はほっと胸をなでおろしたのだが、平野だけは冷徹に妻を睨みつけていた。
「……犯人が逮捕された」
「そうですか」
妻もやっと、一息ついたとばかりに肩を落としていた。平野はそれをじっと睨み据え、冷厳な声を放った。
「だが、一つだけ気になる問題がある」
妻が眉をあげた。
「なんです?」
「凶器の出所だ。この金之丞がどこから入ってきたのかはともかくとして、この男が台所まで忍び込んで包丁を盗んだとは考え難い」
「でも、現にそうしたんでしょう?」
「あなたの夫がそれを許したのか? それとも、あなたが嘘をついているのか?」
平野がますます険しい顔をすると、妻は涙で濡れた渋面を作った。またしても、さめざめと泣きだして顔を手で覆う。
だが冷血な平野は、その袖口から覗いた腕を強く握りしめた。
無理やり手をあげさせ、妻の顔を覗く。その背中から立ち上る殺気でさえ恐ろしいのに、間近で見ている妻の恐怖などは考えようもないだろう。
河津が己の身を抱き、白鳥は持っていた帳簿を取り落とした。
「この腕の傷はなんだ?」
「それは……」
と言い澱む妻に、平野がまた一つ顔を近づけた。その眼睛が相手を捉えれば捉えるほど、妻は落ち着きを失くしていく。平野の体越しに二人に助けを求めるが、血に飢えた虎の眼前に、裸で出ていくような真似はしたくない。
二人とも揃って窓の外に視線を転じ、丸々と太った月を見上げた。
「お前と金之丞、どちらが嘘をついているのか、番所で聞いても良いんだぞ?」
その平野の声は研ぎ澄まされた刀よりも鋭い。
妻は今度こそ本当に泣きだして、残ったもう一本の腕で顔を覆った。
「夫には暴力癖があったんです」
ひとしきり泣き終えてから、妻が話し始めた。要するに、外面ばかり良い夫の不満解消のために、毎日のように殴られていたという。女の力で敵うはずもなく、暴力を受け入れていたのだが、この日に限って好機が訪れた。
それは、粗悪な品を押しつけられた金之丞が――藤助の借金を押しつけられた弱者が――突如として反撃をしたのだ。
店先で激しく殴り合う二人を見ているうちに、妻の心にむくむくと殺意が沸いた。それで台所にとって返して、一番良い切れ味の包丁を選び、金之丞に馬乗りになって殴りつけている夫の藤助を刺したのだという。
夫を殺してしまうと、妻は金之丞に幾ばくかの金と凶器を渡し、これを処分するようにと命じて、自らは血の付いた着物を替えたのだそうだ。
この妻の供述通り、彼女の部屋の箪笥から、血の付いた着物が見つかった。寝間着をあまり着ないのは藤助の趣味なのだそうだ。妻を抱く時は着物をはだけさせるところから、と決めていたらしい。
それで、この哀れな妻は、夜も更けるまで窮屈な着物を着続けていたのだという。
妻がすっかり全てを話し終えたあとになって、火付け盗賊改めの同心達がやってきた。平野は彼らに事件の概要を話すと、あっさりと妻を引き渡してしまった。
これから彼女はどうなるのだろう、と白鳥が見つめていると、河津が悲しげな顔をした。
「流刑か、もしくは死罪だろうな」
「可哀想に。減刑する余地はないんですか?」
「俺に言うなよ。お偉い人達が決めるんだからさ」
河津は心底嘆かわしげに溜息をついて、それから白鳥に向き直った。肝心の一言を言い忘れていた、ということに気が付いたのである。
「白鳥、第二八番隊へようこそ。俺の名前は河津正則だ」
この中年の――顔の半分が髭に覆われた男が気の良い笑みを浮かべると、さすがの白鳥も文句を言えずに、握手を交わした。
「白鳥徳次郎です。どうぞよろしく」
こうして、彼らの最初の事件は終わりを告げたのだった。夜も更ける頃になった番所へと戻り、三人は日の出を見ることもなく眠りについた。