偽りの婚姻④
その力ない後ろ姿に目を凝らしていると、またしても後ろから声を掛けられた
。
白鳥が振り返ると、そこには近所に住むおしゃべりが生きがいみたいな婆さんが立っていて、下卑た笑いを浮かべている。その表情に眉をひそめると、この婆さんは、歯の抜けた口元を歪めた。
「あの女も、随分と殊勝になったもんさね」
婆さんが、そんなことを呟いた。彼女はそのしわしわの体を、半ば白鳥に密着させるように近づいて、彼の耳元でそっと囁いた。
「ここに越してきた時は、それはもう毎日泣きじゃくっていたもんさ」
「何故です?」
「許嫁がいたんだよ。愛し合っていて、もう結婚も間近だった。それを、幸次と、幸次の父親が邪魔立てしたのさ」
この婆さんの支離滅裂な話を要約すれば、十年前、さえとの結婚を狙った幸次は、まずさえの両親を金で籠絡し、婚約を破棄させた。そうして次は婚約者に狙いを定め、怒り狂った彼に暴行され、逮捕させてしまった。
こうして邪魔者が居なくなると、幸次はさえを無理やり引き取り、夫婦となったのだ。
ただ惜しむらくは、幸次の悪運が費えたことである。彼の父親は大店の主だったのだそうだが急逝してしまい、店は別の者の手に渡ってしまったのだ。
結果として幸次は一文無しとなり、長屋に〝都落ち〟を果たし、不幸なことに、さえもその命運を共にすることとなった。それで将来を悲観して、泣きくれていたのだと言う。
「それがさ、ある時、ぱったりとやんだんだよ」
婆さんが言った。息子が生まれた頃だから八年ほど前のことだという。さえは泣くのをやめ、日常を忙しく過ごすようになった。
最初はぎすぎすとしていた幸次との夫婦生活も段々と上手く回るようになり、毎日酒浸りだった彼も仕事に出るようになった。そして、長屋でも評判の家族へと変貌を遂げたのだと言う。
「子はかすがい、なんていうけどさ、まさしくその通りだよね」
「はあ」
白鳥は首をかしげながら頷き、さえの人生に思いを馳せた。一体どれほどの運命が彼女を包んでいたというのだろうか。想い人と離れ――しかも咎人にまで落ちて――憎い相手との生活を強いられる。しかも裕福かと言われればそうでもなく、まさしく一家の司令塔として家事に育児に仕事にと忙しくする。果たしてさえは、その人生に満足していたというのだろうか。
その過去を理解して、白鳥はやっとあの表情に答えを見出したような気がした。いい気味だ、と無言のうちに叫んでいたのではないだろうか。
「どうもありがとうございました」
とりあえず深々と頭を下げて、その婆さんから離れることにする。彼女はまだ話し足りなさそうだが、近所の愚痴は夫に言えばいいのである。何も白鳥に聞かせなくとも、聞くべき相手は沢山いる。
「ねえ、まだあんのよ」
「どこかの家の悪口でしょ?」
「違うのよ。そのさえさんの元許嫁を見たのよ」
それで白鳥は眉を吊り上げ、もう一度婆さんの元へ戻った。彼女はタコのようにべったりと張り付くと、またしても下卑た笑みを浮かべるのだ。
「さえさんの家にね、入っていくのをよ」
「いつです?」
「ひと月くらい前に見たわ。毎月十五日に来るのよ。だから五日後に必ず来る」
婆さんがにっこりと笑う。一体白鳥に何を見出しているのかは知らないが、肌が粟立つような、嫌な感覚だった。振り払っても良いのだろうが、そうすると暴れ出しそうな予感がある。
どうにもこうにも出来ない状況下で、助け船がやってきた。不意に、遠くの家の戸が開いて、怒り狂った様子の若い女が一人、近付いてきたのだ。
「ちょっと、お婆ちゃん!」
鋭い声で打ち据えられると、婆さんがびくりと体を震わせた。白鳥の体に隠れようとして、若い女に首根っこを掴まれた。
「もう! でたらめばっかり言うんですよ。信じないでくださいね」
「え? はあ……」
白鳥が気のない返事を返すと、婆さんが泣き叫ばんばかりに声を振り絞った。
「ほんと、ほんとよ。あの女、ゴミの分別もしないんだから! だからあたしが選別してやってんのに!」
「ちょっと! 裏庭のあれはそういうことなの? いっつも適当なことばかり言って!」
「お願いよ、あんた、信じて。これだけはほんとなのよお!」
その必死さに打たれて、引きずられていく婆さんに、白鳥はそっと尋ねた。
「じゃあ、幸次の父親がやっていた店はどこです?」
「豆河通りの米屋よ!」
まるで最後っ屁のように婆さんは叫び声を上げ、若い女によって家の中に引きずり込まれてしまった。その後ろ姿を見送り、白鳥は頭を抱えた。近くでは河津が家から顔を出していて、一連の騒ぎを聞いていた。
「米屋に行きますよ」
白鳥はそう宣言して、さっさと踵を返した。後ろでは河津が慌てたような声を上げ、何かに引っかかってすっ転んだ音がする。婆さんの信頼性はともかくとして、疑問は全て潰すのが捜査の鉄則だ。少なくとも平野なら、そうするだろう。