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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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偽りの婚姻③

 辺りが茜の色に染まる。

 三人は診療所にいた。いや、やってきたのは随分と前のことだ。

 今は死体を確認し、変わり果てた夫の姿を見た、さえが泣きじゃくっているところだ。罵声を浴びせてやろうと決意していた白鳥でさえ、その後ろ姿には掛けるべき言葉を失った。

 彼は力ない、さえの背中をそっと叩くと、今この時はどういう言葉が最適なのだろうかと考えを巡らせた。

 御愁傷様ですと言うには、さえの感情が高ぶっているし、お悔やみ申し上げますと言うには、平野が怪訝な顔をしている。

 要するに、白鳥は板挟みであった。忙しく働く医師に助けを求めるわけにもいかず、彼は途方に暮れていた。何かしていないと気が狂いそうだったが、その何かが掴めない。ただひたすらに泣きくれる、さえの肩に手を置くばかりだ。

 と、そこに河津が入ってきた。

 どうやら仕事を終えたあとのようで、平野に向かって自慢げに何かを言っている。彼女の方は眉間にしわを寄せたまま、その報告に聞き入っていた。

「あの……」

 突然声を掛けられる。

 上司二人の様子を見ていて、さえの方には気を配っていなかった。泣きはらした彼女の瞼は腫れぼったく、そして顔は疲労感に包まれている。その傷心の妻を見やって、白鳥はほんの一瞬、あっけに取られた。さえが冷たい顔をしていたからだ。

 あれほど悲しんでいたと言うのに、夫の亡骸を一瞥すると深々と溜息をついた。

「亡骸は、いつ引き取ればよろしいですか?」

「はあ、えーと、明後日までは、ここに置いてもらえるそうです。それ以上となると臭いもありますからね。早めにお寺の方に報告して、埋葬なさってください」

「そうですか……」

 さえの面上に、ほんの僅かながら安堵の色が浮かびあがって、白鳥は困惑した。夫が死んだと言うのに、先ほどまで泣いていたと言うのに、もう吹っ切ったというのだろうか。

 今や薄い笑みを浮かべるほどには余裕がある。その代わりように、白鳥は身を打ち震わせた。さえから一歩分だけ身を離すと、その得体の知れない生き物を、じっと見つめた。母とはこれほど強いものなのか、それとも彼女が強すぎるだけか。判然とはせぬ。しないからこそ恐ろしい。

 さえに己の母の姿を重ね、あれがもし夫を失ったらどうするだろう、と白鳥は思考を巡らせた。それでもたぶん、葬式までは泣くだろうな、という気にはなる。その後のことは知らないが、しかし夫の亡骸があるうちは、まともな判断は下せまい。

 もしかしたら、錯乱しているのだろうか、と声を掛けようとしたところで、後ろから平野に声を掛けられた。

「おい、白鳥」

 その声で振り返る。彼女は眉をひそめた。それは白鳥があまりにも馬鹿みたいな面をしていたことにもあるのだろうし、もしくはその奥に見えた、さえの姿がやはり彼女にも恐ろしく見えたことにもあるのだろう。ともかく彼女は咳払いをして、隣にいる河津を睨んだ。

「家を調べてこい。気になることがある」

「でも、家の人の許可は?」

 ちら、とさえを見る。彼女はまだ薄い笑みを浮かべて、床をじっと凝視していた。その冷徹な表情は、平野が浮かべるそれとは多少違う、どこか白々しい印象があった。

「いらん。これは捜査だ。拒否権はない」

 というわけで、白鳥と河津は診療所を追い出された。鋭く睨む平野に後押しされて、二人は元来た道を戻っていった。長屋が連なる一帯では、もう幸次が死んだことが噂になっていた。二人の同心を見るなり、女達は蜘蛛の子を散らすようにして逃げ、男達は反対に近寄ってきた。

 幸次は何故死んだのかとか、妻子はどうなるんだ、とかいうことを矢継ぎ早に聞かれるが、白鳥が返す言葉はたったの一つだった。

「捜査中です。事件か事故か病気か、今調べているところです」

 そうして彼らは一苦労しながら、やっとの思いで幸次の家に入った。背中には好奇心の視線が突き刺さってはいたが、戸を閉めてしまえばまったく気にはならなくなった。長屋の喧騒が遠くの出来事に変わり、二人は顔を見合わせて家の中を漁ることにした。

 事情は河津が知っている。彼は押し入れの中に顔を突っ込みながら、捜査の状況を告げた。

「医者の話では、幸次は金属中毒じゃないかというんだ」

「金属って、煮えた水銀でも飲まされたっていうんですか?」

「知らんよ。だが、お嬢が言うには、この家には何かあるんだ」

「何があるんです? 夫を失った家だという以外に」

 返ってきたのは沈黙だ。いや、返ってこなかったというべきか。ともかく白鳥は、釈然としない思いに駆られながら台所の方に回った。ちょうど夕食を用意している最中だったようで、切りかけの食材がいくつか、まな板の上に取り残されていた。

「うーん、でも、食事に混ぜられているわけでもなさそうですし……」

 そう言いながら、白鳥はまな板の上の食材に触った。幸次に毒を盛ったのだとして、それを妻子が食べる可能性があるような行動を取るだろうか。脳裏に浮かんだ、さえの恐ろしい顔を思い出して、白鳥は首を振った。

 いや、職業病のようなものだ。何でもかんでも人を疑ってしまうのは、同心の悪い癖だろう。

 ひっくり返してしまおうか、というほど部屋の中を掻き回している河津を他所に、白鳥は外の空気を吸いに出ることにした。

 辺りは宵闇に足を掛けたところで、東の空から星の海が浮かび上がっているところだった。その夜の冷たい空気を肌に浴び、そしてそこここから漏れる明かりに目を細めて、白鳥はぼんやりとする頭を振った。不自然な熱にほだされていた体が徐々に冷めていく。

「全く、あの人達に血はないんじゃないかな?」

 そんなことを言いながら、明かりもつけずに部屋の中を這いまわる河津を睨んだ。薄暗い影の中をうごめいていて、あれの方がよほど不審じゃないかと思うのである。

 しかし、さえのあの表情はなんだったのだろう? 白鳥は首をかしげた。長屋の壁に寄りかかり、ふっと息を吐く。体内に溜めこまれた熱が排出されて、脳みそが激しく動くような感覚がある。

 それに幸次だ。日雇いの男が――ただの労働者が――何故金属中毒になどなるのだろう。大した仕事をしているわけじゃない。金属を扱うような、専門的な職にありついていたわけではないのだ。

 誰かが飲ませたのだろうか?

 そう考えていた時に、傍らで動く影がある。ああ、河津さんか、と振り返ると、さえが立っていた。もうあの薄笑いは引いていて、悲痛な表情を浮かべたまま。

 それを見ると、やはり夫を失った女だと見えるのだが、しかし、やはりどこかに違和感がある。その正体が掴めないまま、白鳥は動悸の激しい胸のあたりを撫でた。

「さえさん、何か御用ですか?」

「ええ、はい。その、着替えを取りに」

 沈鬱した面持ちとは、まさしく彼女の顔を言うのだろう。足を引きずるようにして歩き、闇の中に溶け込んでいった。部屋の中で河津と出会い、荒らされた室内を見てもなお、感情は動かないようだ。自分と子供と、最小限の服を取って立ち去った。よろしくお願いします、と深々と頭を下げ、長屋の砂利道を歩いて行ってしまった。

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