偽りの婚姻②
結論から言えば、平野が見たのは実物だった。彼女が不審に思うほど、足取りのおぼつかない男がいて、それが急に胸を抑えて倒れたのだという。平野はその騒ぎを一足早く聞きつけて、現場に急行したのだ。
遅れて白鳥がやってきた時、すでにこの男は絶命しているということが分かった。同じく警邏のために通りがかった同心に、応援を呼ぶよう頼んで、今しがた死に絶えた男の顔を覗きこんだ。
「薬物ですかね?」
顔はやや青ざめているが、どこかに怪我をしたわけでもなく、かつ不審な痣があるわけでもない。本当に覇気のない男が、勝手に死んだのだと思わされるようだった。死体を検分していた平野は、近づいてきた野次馬共に威嚇をして、そっけない声を放った。
「決めつけるな。……ただ、そう単純ではないだろう」
この平野の直感は大体的を射ていた。同じく死体を見た医師が、眉間にしわを寄せて首をかしげたのだから。
「死因は?」
平野が問うと、この医師はなおも首をかしげたまま、頭の上にちょこんと乗った髷をなぞった。
「体力が低下していたんでしょうなあ……。目撃者の言葉も加味すれば、咳をした拍子に心臓が止まったというところでしょう」
「では病か?」
「その可能性はありますが、しかし解剖してみないことにはなんとも……」
医師はちらと男を見下ろして、眉間に寄ったしわを揉み解した。
「なにしろそういう大病を患うには若すぎますからな」
と言われて白鳥も男の顔を見た。二十代後半から三十代半ばといったところだろう。そのくらいの年齢ならば死ぬ奴もちらほらといるだろうが、そういう奴は大抵床に伏せってそのままだ。この男のように街をぶらついていて死ぬような奴はめったにいない。
「……では、男を調べることにする。お前も何か不審な点があったら教えてくれ」
そう言って、白鳥と平野はその男の亡骸を見送った。それから散り始めた野次馬を一瞥し、あの男に見覚えがないかと尋ねた。その中の一人がおずおずと出てきて、長屋に住む幸次ではないかというのである。
その哀れな正直者に道案内をさせることにする。
混雑する豆河通りから離れてしまえば、存外辺りは閑散としているものである。三人は何の障害も無く長屋のある通りへと至り、そこで平野が突然声を上げた。
「その幸次という男は何の仕事をしているんだ?」
「はあ、日雇いだったと思います。ここ一、二年は調子が悪いと、たびたび休むこともありましたがね」
「ふん、どこかが悪いと言っていたか?」
「いやあ、あたしは詳しく知りません。ただ、腹が痛いとか、そういうことを言ってましたねえ」
なんてことを話しているうちに、幸次の家に辿りついた。白鳥が住む長屋よりもさらに小さく、そして壁の薄い家だ。家族四人で住んでいるのだというから、あまり裕福な生活ではなかったらしい。
照りつける日光を避けるように長屋の軒下に移動して、平野が戸を叩いた。
ややもあって声が返ってきた。板べり一枚の粗末な戸を開けたのは、七、八歳の少年だ。
彼は突然現れた三人の大人に驚いて、腰を抜かしてしまった。その恐怖心を煽りたてた主因たる平野は、渋面を作りながら白鳥にその場を譲った。
それと同時に三十路に足を掛けようかという年齢の女が出てきて、怪訝な顔をした。
「何か?」
「ここは幸次さんのお宅ですか?」
「ええ、幸次は夫の名ですが」
女が怪訝な顔をする。それで、もしかしたら旦那さんが亡くなったかも知れないと白鳥が告げると、女は一笑に付した。
「まさか! 夫は元気に仕事に向かいましたよ?」
「ですが、道端で倒れたのも、その、幸次さんだったとか……」
と言って白鳥が後ろを振り返ると、ここまで案内してくれた男も勢い良く頷いた。女――さえというらしい――に向かって、気の毒そうに眉根を寄せた。
「それがさ、幸次さんだったんだよ。一応見てきてくれよ」
というわけで、さえは子供達を近所の友人に預け、死体を見に行くこととした。
その間、さえの口は止まらない。やれ、夫は健康体だったとか、人違いだとか、それこそ口やかましく白鳥をなじった。平野の方に攻撃が向かわなかったのは、彼女が冷厳な顔をますます険しくしているからだ。
世の中は不公平だ。姦しい、さえの口撃を受けながら、白鳥は荒っぽく髪の毛を掻いた。
「全く、人違いだったら、ただじゃおかないんだからね」
ぷりぷりと肩を怒らせるさえを横目に、白鳥の方も悪態をついた。ええ、人違いじゃなかったらなじってやるんだからな、と。