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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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偽りの婚姻①

「全く何を考えているんでしょうね!」

 憤懣やるかたないという白鳥の声が番所中に響き渡った。彼は作った握り拳で土間を叩き、それから荒っぽく髪の毛を掻きむしった。今日ばかりは仕事に手が付かないらしく、彼の前はまっさらだ。いつも白鳥が請け負っていた書類作業を、平野と河津が代行するという有様である。

 その二人は、怒り狂う白鳥を横目に顔を寄せ合った。

「お嬢、良いんですか?」

「たまになら、な。明日も続くなら殴ってでも仕事をさせろ」

 そんな親密そうな二人の様子を見て、まるで酔っ払いにでもなったかのように、白鳥が鋭い声を放った。

「聞いているんですか!」

「ああ、聞いているよ、白鳥」

 河津が間髪いれずに答え、目の前の帳簿に視線を落とした。全くチンプンカンプンだ。どうやら白鳥は、自分がやりやすいように仕事を変えたらしい。以前よりは明らかに見やすくなったにもかかわらず、年を取った河津などは理解するまでに充分な時間が必要なのであった。

 であるから、そういう難しい作業は平野に預けて、河津も小さな机で頬杖を突いた。

「で、その従妹がどうしたって?」

 この白鳥が怒り狂っているのは、彼の従妹に因るのである。どうやら望まぬ結婚を強いられるらしい。それ自体はよくある話なのだが、白鳥が到底承服できないのは、その従妹の嫁ぎ先であった。

「九進屋という店なんですがね、ここの主がまた嫌らしい男なんです。このご時世に、四度も結婚しようという馬鹿な男なんですよ」

「ほお、四度……。奥さんは死別か?」

「いいえ、全部この主から言いだした離縁です。どうやら少女趣味があるらしくて、若い女を娶って、しばらく経つと別れてしまうんです」

 どうやら白鳥の憤りはここに集約されるらしい。

 この九進屋という店、いちおう万問屋に名を連ねており、それは白鳥屋と同じなのだが、その規模が違う。白鳥屋はせいぜい上級の武士や豪商を相手に商売をするのに対して、この九進屋は禁裏での反物御用を抱えている。つまり店の格も違う。白鳥家からすれば、近い将来離縁されるとしても、この九進屋と繋がりを持てるという僥倖をちらつかされているのだ。

「まあ、しかし、お前さんにどうこうできる問題でもなかろうに……」

 この白鳥の従妹に対する、多少の憐憫が河津の心を締めつけたのだが、だからといって返す言葉はない。その新しい夫が暴力的でないとか、姑が屑でないとか、年頃の娘らしく丁重に扱われるならば、致し方ないのではないか、というのが本音のところである。

 ただ、それで納得できないのが白鳥である。彼は文字通り赤子の頃からこの従妹を見てきたのだ。幸せにならないと分かりきっている結婚に舵を切るわけにはいかなかった。

 さりとて駆け落ちなど出来るわけもないし、白鳥屋の戦略に口を挟めるほど偉くもない。無力感が、白鳥の心を鞭のように激しく打ち据えるのである。

「はあ、いっそのこと、従妹に想い人でもいたら良いのに」

「いたって、どうしようもないだろう。まさか叶わぬ結婚を夢見て心中するわけにもいくめえし」

「そりゃそうでしょうがね……」

 と力なく溜息をついた白鳥は、ともかく気分を晴らそうといつもより早く警邏に出ることにした。いつまでも、くさくさとしてはいられない。

 散歩を待っていた犬ころよろしく、勢いこんで立ち上がろうとした河津の首を、平野が掴んだ。その巨体がものの見事にひっくり返されて、白鳥は思わず口笛を吹いた。

 これまでの付き合いで分かるのは、平野というのは決してこけおどしの女ではないということだった。言い方は悪いが、女の割には力もあり、剣の技術も身につけている。へっぴり腰の白鳥とは違って、長年研鑽をつんだ剣士としての力量を有している。

「河津、仕事が終わっていないぞ」

 何のよどみもなく立ち上がった平野が冷ややかに言う。確かに、怒り狂っていた白鳥でも分かるほど、河津の手は動いていなかった。であるならば、まだやるべきことはたくさんあるということだ。

「悪いが、お預けだ」

 この第二八番隊の隊長は、背中越しでも分かるほどの殺気を放ち、河津を黙らせてしまった。

 というわけで、いつもの通り豆河通りを警邏することになった。

 ただし、隣には平野静がいる。この冷厳な隊長が、こうして雑務に勤しむ機会はあまりない。いつもは番所の控室にいて、何か書き物をしたり、剣の鍛錬をしていたりする程度だ。

 豆河通りは今日も大盛況だった。この通りを真っ二つに貫く豆河には、所せましと船がひしめきあい、色とりどりの商品を店舗に運び入れている。

 そして、その商品を目当てに暇な富裕層が買い物に訪れるという、警邏をする身からすれば最悪の循環が起こっていた。

 さながら肉の壁ともいえるような混雑が二人の前にはあった。いつもならば河津を前にして楽をするところなのだが、生憎今日の相棒は平野である。だから、白鳥は一つ大きく息を吐いて、自らこの人いきれを掻き分けた。

 その後ろを平野が悠然と歩いてくる。腹立たしい、と内心で独語するものの、かといって平野に聞かせるわけにもいかず、この憤懣を全て腹の底に収めた。

 従妹の件といい、この豆河通りの混みようといい、いつか蠱毒となって体中の穴から吹きだすんじゃないか、と白鳥は恐怖に打ち震えた。

 強引に人を押しのけ、スリや喧嘩がないかと確認していく。白鳥からすれば、忙しく立ち回る馴染みの人達を見るのも役割だ。河津とするように、いくつもの店を回り、声を掛け、そしてまた人込みの中に紛れこんでいく。時間を追うごとに豆河通りは人であふれかえり、今や足の踏み場もないというような有様だった。

 一息休憩を入れるために軒下に避難してくる。乱れた着物の裾を整え、さてまたこの雑踏を掻き分けようかと気合を入れた白鳥の背中を、平野がちょこんと叩いた。

 それで彼が振り返ると、不思議そうな顔をした平野が、あらぬ方向を見ている。その視線の先を追うが、白鳥の目には特段珍しい景色は映らない。

 通りに沿って軒を連ねる瀟洒な問屋の建物と、あとは黒々といった印象の人いきればかりだ。足元から土煙が上がって少々煙たく、白鳥は肩をすくめた。

「どうしました? お化けでも見ましたか?」

 と声を掛けると、平野はいつも通り冷厳な顔を白鳥に向けた。

「いや、変な男が歩いているのを見たような……」

 平野にしては歯切れの悪い言葉に、白鳥が首をかしげる。

「変な男って……幻覚ですか?」

 今度こそ平野にこつんと額を小突かれて、白鳥は強く目を瞑った。再び瞼を上げた時、平野の疑念は確信に変わったらしく、彼女は腰に帯びていた神平家の紋所が入った印籠を掲げたところだった。

「町奉行所だ。道を開けろ!」

 平野はこれ以上ないほど峻厳な声を上げ、人込みの中に飛び込んでいった。そのあとを慌てて白鳥が追い、やはりいつもと同じ立ち位置が落ち着く、と情けない現実に思い至ったのであった。

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