出来の悪い殺人②
「被害者は藤助。この金物問屋の店主です。また、犯人は売上金も盗んだようです」
現場には、すでに二十人ばかりの同心が集まっていた。その集まりの良さに平野が眉をひそめると、隣を歩いていた同僚の同心が肩をすくめた。
「飲み会があったんですよ。それで近くにいました」
「……酩酊していなければいいさ。で、加害者は?」
「それが、全く分かっておりませんで。第一発見者の奥さんによりますと、若い男が逃げていったとか、何とか」
「どちらの方向に?」
平野が苛烈な視線を叩きつけると、同心はさっと蒼白の顔をして河津に助けを求めた。彼もまた心得た男であるから、主である平野に耳打ちをした。
「調べている最中ということでしょう。……で、その藤助に殺される余地はあったのか?」
「それが、聞き込みをしている限りでは、とんと聞きません。仕事は誠実だし、社会奉仕にも熱心だったとか」
河津はちらりと平野を見やり、首を振った。事件の領分から見れば、彼らの職務の範疇を超えてはいる――殺人は町奉行所の範疇だが、強盗が付くと火付け盗賊改めの領分である――のだが、取り巻く環境が逃げることを許してはくれない。
であるから、問屋の中に入ったあとに河津は声をあげた。すでに死体は片付けられているらしい。入口から入ってすぐのところにある土間に、大きな血溜があった。同心達はその周りをあくせくと駆けまわっている。
「凶器は?」
険しい顔をした河津が口を開くと、あらぬ方向から声が返ってきた。
「包丁みたいですよ」
平野達は思わず声のした方を見て、そこにいる見覚えのない男に首をかしげた。
その男――白鳥徳次郎は、店の中を歩き回りながら帳簿を見ている。目についた数字を頭の中で咀嚼して、この金物問屋の経営実態を掴もうと苦慮していた。
「お前は?」
平野が冷たい声を放った。その眼睛が、はっきりとした鋭さを持って白鳥に注がれた。但し、相手の方は数字に夢中で気付いてはいなかったが。
「白鳥徳次郎です。何がどうしてこうなったのかは分かりませんが、第二八番隊というところでお世話になることになりまして……。その御挨拶に町奉行所に行ったら、何故だかこの捜査に巻き込まれたんです」
全く遺憾だ、と言いたげに白鳥が首を振った。平野の方は彼に見えない位置で顔を歪め、殺気だった視線を河津に向けた。もちろんのこと、この恐ろしい眼差しに射抜かれた河津は、股座が濡れていないかと確かめる羽目になった。
「そうか。私が第二八番隊隊長の平野だ」
「はあ、どうも」
この会話の間、ずっと白鳥は帳簿を見続けている。生まれてこの方、数字ばかりを追ってきた男であるから、あまり人のことには関心がないのである。その事実に平野は満足そうな声を上げ、次いで白鳥に尋ねた。
「お前から見て、この事件はどう思う?」
「そうですね。人の話ってのは……うわ!」
いつの間にか平野が真隣りにいたものだから、白鳥もさすがに気がついて飛び退った。
それはそうだろう、と河津などは思うのだ。隣に猛虎がいたら、誰だってそうなるだろう。事件に直面した平野は、往々にして視線だけで人を殺してしまえそうな、殺気に満ちているのだから。
「なんだ? 話を続けろ」
平野が不機嫌そうな声を上げると、白鳥は急に怯えた顔つきで咳払いをした。
「えーと、あの、近所の人の話では、ここは誠実な仕事ぶりとのことでしたが、内実は火の車です。物は売れない、でも商品は買い続けなければならない。色々なところから借金を繰り返して、何とかやってきたようです。しかも、この問屋はいくつかの小売店と契約をしていますからね。かなり無理やり商品を売りつけていたようです」
「何が言いたい?」
「恨みを持つ人間は多いです。ここの借金を押しつけられた小売店もあるみたいです」
平野は思案した。この事件は彼女の職務を超えている。殺人ならばともかく、強盗まで付くと町奉行の同心ではなく、大目付直属の火付け盗賊改めの同心達の仕事なのである。
だが、それぞれの直属の上司である町奉行と大目付とが、互いに反目し合っていることが多いため、現場では往々にして混乱が起こるのだ。
であるから彼女は、彼女の判断で捜査を続行した。現場に遅れてくる方が悪い、とでも言っておけばよかろう。
「では、目明しをそちらに走らせろ」
大抵、その場に対等な人間しかいなかった場合、平野が先頭に立って指示を出すことが多い。それは彼女の出自もあるし、なおかつその実務能力によるところもある。普通、番隊を任される同心というのは三十代半ばほどであるのだが、彼女はまだ二一歳だ。人よりも十年早く出世する、優れた女なのであった。
「で、あの」
すっかり小心者の雰囲気を取り戻した白鳥が、平野とそして傍らに控える河津とを見やった。彼らが同僚になるということを聞かされて、今頃になって平身低頭しているわけだ。平野は、その様子を恬淡な面持ちで見つめ、それから視線を切った。
「自己紹介はあとだ、白鳥。……それで、この店の妻はどこだ?」
と言いながら離れていく平野の背中に、白鳥が怖々と声をかけた。
「あの、ちょっと気になることがありまして」
店の奥へと行きかけた平野が、足を止めて振り返った。その形相はまさしく鬼気迫るものがあり、白鳥は顔を引きつらせた。獲物を捉えた虎というのは、きっとこういう顔をしているのだろう、というほど冷徹で勇壮な顔をしていた。
「なんだ?」
「犯人は店の裏手から入って、出て行ったんですが、何故だか足跡が二人分あったんです」
「それがどうした? ここの妻が追いかけたんだろう?」
「ですが、裏口の扉はきちんと閉められていたんです。まさか、犯人を見送って閂をしてから戻ったんでしょうか」
この問いに、平野は近くにいた別の同心を睨んだ。あくせく働いていた不幸な彼は、恐ろしい物を見たかのように肩を強張らせて、小さく頷いた。
「確かに、閉じられておりました」
平野はそこで沈思して、河津を睨んだ。長年の付き合いである二人の間では、それこそ無言の内に膨大な会話がなされたのだが、全く決断に必要だったのはたった一つの事実であった。
〝こいつ、どう思う?〟
〝まあ、やるようです〟
河津の評価にまたしても息をついた平野ではあったが、しかし捜査に一刻の遅れがあってはならぬと思い至ったのか、顎をしゃくった。
「ついて来い」
こうして第二八番隊の三人は店の奥へと向かった。