雨降りの日⑤
主の部屋で、こうべを垂れる藤次郎を見下ろし、平野が冷徹な顔をうっすらと歪めた。
「ふふ、逃げ出そうとするんだ。何か知っているだろう?」
何故、この女はこういう時に限って面白がるような声を上げるのだろう。
頭を抱えた白鳥は、ちらと旅籠の主を窺った。彼も藤次郎を見てはいたが、平野と同じか、それ以上に冷淡な顔をしている。突き離しているというよりは、意図的に無関係を装っているような気がして、白鳥は首をかしげた。
「あの」
藤次郎の悲鳴を背景音に、白鳥は旅籠の主ににじり寄った。この初老の男は、眉を吊り上げて白鳥に応じた。
「何でしょう?」
「……僕の仮説でしかないのですが。あなたも何か知っているんじゃないですか?」
「北島のことをですか?」
そこで白鳥は髪の毛を掻き、唸り声と一緒に疑問も吐きだした。
「……北島?」
そこで、はたと主の方も気が付いた。
北島は、この旅籠にいた頃は南波と名乗っていた。いや、あの長屋以外ではそのまま南波と名乗り続けていた。北島という名を知っているのは、長屋の周辺の人間だけである。この主は、その名を知らないはずだ。彼の前でも南波と名乗っていたのだから。
「ああ、いえ。聞いた気がしたものですから。あなただったかな?」
と言い訳がましいことを言うが、白鳥は一切口にしていない。ここでは通じないだろうと、被害者の北島のことを〝南波〟と呼んでいた。
「あなたにも話を聞かせてもらいますよ」
白鳥が険しい顔をすると、この旅籠の主は視線を泳がせた。事実が露見することに対する不安の表れだろう、と白鳥は断じて、二人を番所へと連行した。
さて、この番所の内部では、すでに出勤してきていた河津と、昨晩から休みなく働いている平野が取り調べを行なっていた。
白鳥は、何の意味があるのかも分からないまま帳簿を漁り、旅籠に泊まった人間や出ていく人間などを調べていた。
北方から、この市中へと下って来るような連中は往々にして旅行者か出稼ぎだ。怪しい人の影はない。当然といえば当然なのだが、白鳥はそれに至って、旅籠の主の元へ向かった。
取調室という名の土蔵の中に入ると、奥の方から藤次郎の悲鳴が聞こえてきた。
そちらは今、平野が担当している。手荒な真似はされないだろうが、たぶん藤次郎にとってはこの世で最も恐ろしい時間になるだろう。寝不足の平野は、それほど恐ろしいのだ。
一方、河津と旅籠の主は土蔵の一画で睨みあっていた。河津は小さな樽に座り、旅籠の主は砂を詰めた麻袋に腰を下ろしていた。
こちらは藤次郎と比べれば穏やかなものだ。事件の概要も、話の取っ掛かりも掴めない河津は困った顔をしていた。そこに白鳥がやってきたものだから、これ幸いにと彼は微笑んだ。
「何か分かったのか?」
「いえ、全く」
と白鳥が返すと、河津は眉をひそめ、旅籠の主に視線を戻した。この初老の男は目を瞑ったまま、先ほどから一言も発していないらしい。
「ねえ、本当に話すつもりはないんですか?」
帳簿を片手に白鳥が尋ねると、旅籠の主は目を伏せた。
その姿をじっと見下ろして――土蔵の上部から差し込む日光が、この旅籠の主の顔にかかっていた――白鳥は溜息をついた。持っていた帳簿を開き、宿泊者名簿を右から順に口にしていく。
「――太兵衛、長町屋平六、妻たえ、吉野又次――」
突然、名を読み上げ出した白鳥に、河津はぎょっとした顔をした。何をするつもりなのか、分からなかったからだ。
しかし両者を見比べていると、段々と旅籠の主の顔が険しくなっていくものだから、口を出すわけにもいかなかった。
どれほどの名が呼ばれただろうか。北から来る人間というのは存外多く、しかも今の時期は休漁期と重なるため、それこそおびただしい数の出稼ぎ人の名が連ねられていた。読み上げているだけの白鳥でさえ、喉を枯らして、咳払いを何度もした。
しかし、とある一人の名を口にした時、旅籠の主が眉を動かした。
「――河野忠芳、吉木屋娘ふち」
じっと彼の様子を窺っていた白鳥は、それでもう一度繰り返した。
「吉木屋娘ふち」
この旅籠の主の眉間にしわが寄った。それでもう一度。今度は握りしめていた手に力がこもる。もう一度――。
そうして何度か口にしたあと、白鳥は――平野に負けず劣らず――冷淡な顔をした。
「彼女とはどのような関係です?」
「…………」
「言う気はない、と。分かりました。番所に案内しましょうか」
冷たく言い捨てて踵を返す白鳥に、旅籠の主がぼそりと呟いた。
「いま、何時です?」
この言い草に引っかかりは感じたものの、白鳥は土蔵の上部から空模様を見て、肩をすくめた。
「南中をやや過ぎた頃でしょうか」
「そうですか」
主はほっと胸をなでおろしていた。その様子に言い知れぬ不安が襲ってきて、白鳥は険しい顔を彼に向けた。そのまま無遠慮に近づき、この初老の男の肩を掴んだ。
「どういう意味ですか?」
しっかと目を見据えると、その形相に驚いたのか旅籠の主が首を振った。視線を逸らそうとするので、顎を掴んで視線を戻させた。
「何故、時間を気にするのです?」
何だか嫌な予感がする。腹の底がむかむかとしてきて、顎を掴む手に力がこもった。旅籠の主がくぐもった声を上げた頃になって、河津が白鳥の手を掴んだ。
「止めとけ、こいつは容疑者じゃない」
「でも――」
と言いかけたところに、平野が飛び込んできた。この第二八番隊の隊長は、情けない二人の部下の首根っこを掴み、急いで土蔵を飛び出していく。
この突然の変わりように、日差しのある中に突然引きずり出された白鳥は情けない声を上げた。
「ちょっと平野さん、何ですか?」
指すように強烈な南中の日差しを浴びて、白鳥は目を閉じた。そうしていても視界が赤く染まるほど、今日の陽気は強烈である。しかし平野は全く意に介する様子もなく、大の男を二人も抱えたまま、ずんずんと番所の裏庭を横切った。
結局、話をしてくれたのは豆河通りを南に下り始めた頃だった。