その後のこと②
白鳥は屋敷の玄関を勢いよく開けた。
挨拶をするが声が返ってくることはない。さっと日が差した玄関口は、少なくとも汚れ一つなく整えられている。板張りの廊下だってきちんと磨かれていた。
その軋む音を聞きながら、白鳥は屋敷の一番奥に足を踏み入れた。
風通しの為か全ての部屋の襖が開け放たれていたのだが、ある一室だけ、閉じきられたままひっそりとした空気を漂わせていた。
「平野さん?」
そっと――あの番所の控室を開ける時を思い出し――戸を引いた。
その畳敷きの部屋の中央に綿の布団が敷かれている。そこで寝ていた女は、まどろんだ様子で鼻を鳴らした。
「……誰だ?」
「白鳥です」
途端に平野は左手で顔を拭い、入れと手招きをした。枕元で膝を折る。彼女はお噂の鋭い眼光で睨んできた。頬の傷も恐怖を倍加させていた。
「……何の用だ?」
「いや、用ってこともないんですが」
この親子はやっぱり似ている、と白鳥は苦笑した。不満げに口を尖らせるところも、孤独から解放されて表情を和らげるところも。
半笑いを浮かべたかつての部下に、平野は凛呼たる表情をさらに引き締めた。
「用もなくお前が来るはずもないだろう? 何だ?」
何とも厳しい言葉だ。白鳥は溜息をつき、がら空きになった腰を誇示した。
「同心を辞めました」
「……」
「そんなに恐ろしい顔をしないで。元から決めていたんです。今は港近くにある天野屋で働いています」
平野はそっぽを向き、ふん、と鼻を鳴らした。その不機嫌そうな顔には血の気があまりなく、青ざめて見える。
かつては冷厳さの証明だったその顔立ちも、今では少し痩せてしまっている。
そのほっそりとした顎に手を伸ばした。くすぐると、さして嫌そうなそぶりも見せず、視線を向け直してきた。
「それで?」
「……はい。今日はちょっと相談がありまして」
「言ってみろ」
その言葉を待っていました、と言わんばかりに、白鳥は持ってきた桐の箱を開けた。
中から現れた桜色の着物に平野は目をひんむいた。しかし、ここ数日の意固地と不摂生とがたたり、上手く起き上がれず顔を歪めた。
「ええと、この美しい着物と共に、こんな指令書が残されていました」
白鳥は咳払いをして、古ぼけた紙きれを読み上げた。
「〝これで終わり。私はあなたのお嫁さんです〟……と。これに関して弁明は?」
「幼少の、血迷っていた時期に書いた物だ。無効だろう?」
平野は泣きそうだ。誰だって、若気の至りを晒されたら苦しいものだ。白鳥だって実家にいくつか危険物を隠している。子供の頃に好んで身につけていたボロの一張羅や、好きな女の子にしたためて結局出せなかった恋文とか。
「……いや、無効じゃ困るんですよ」
だから白鳥は、それが悪戯や悪ふざけに見えないよう、真面目な顔をした。
「ぜひとも平野さんにはこの通りにしていただかないと」
彼女はそこで初めて冷厳な表情を崩し、驚愕で面上を埋め尽くした。
「は?」
「僕の奥さんになってくれないと困るって言っているんです」
「……な、何故だ?」
その慌てた様子に白鳥はふっと溜息をついた。
「まずですね……商人として妻帯者じゃないと信用が得られません」
「別の人間でも良いだろう?」
「そして天野屋のお爺さんが結構面倒な人で、あしらえる人じゃなければ困ります」
「どこかに適任がいるはずだ」
「何より、僕個人の話ですけど、誰かが目を光らせていないとさぼりがちになるんです」
「気を強く持て」
「……さらに言うと、取引相手に船乗りや漁師が多くて、ある程度気の強い人でないと心を病んでしまいます。おまけに新しく来た丁稚も生意気なんです」
「……」
「で、そんな要素を全て持っていて、かつ手っ取り早く結婚出来そうな独身ってのが一人しかいないわけです。しかも、その人は最近贔屓になった神平家の御息女ときている」
適任でしょう? と白鳥は笑みを深めた。
対して平野は苦々しげな顔をしている。ここ数日、同心としての役目も奪われ、やることもなかった彼女からしても然りだ。
嫁ぐのだって悪い家柄の人間ではないし、他所の武家みたいに平野に先入観を持っていない。
……つまりは恐れられる心配も、取り繕う必要もない。
しかし、だからこそ苛立たしいのだ。
平野は得意げになっている元部下を睨んだ。彼は抜け目なく右側に座っていた。彼女の右腕は今もって上手く動かず、布団から出そうと、もたついた。
ぎこちなくその右手が布団から飛び出すと、白鳥は何の躊躇いもなく握りしめた。
「ああ! お話、受けていただけますか!」
「え? いや……」
「大丈夫みたいです!」
白鳥はにこにこと笑ったまま、この別宅の外に向けて大声を放った。平野は怪訝そうに唸った。何が起こるのかと不安になったのだ。
すると縁側の方からどっと下女が入ってきた。
その数は五、六名だ。平野はそちらに鋭い眼光を向けたものの、右手を優男に取られているということもあって、迫力は半減している。
下女も普段のようには逃げてくれず、石鹸だのお湯だの、それから清潔な布切れだのを持ってきている。
そしてなお平野を恐怖のどん底に叩き落としたのは、そんな下女の後ろから、ここ数日遠ざけていた医師が姿を現したことだ。
「……おお、天野屋の」
案外適応力があるようで、白鳥に露悪的な笑みを浮かべていた。
もちろん白鳥も同じくらい悪辣な笑みを浮かべていて、同心として接していた時には見られなかった狡猾さが滲んでいる。
「ええ、約束通り妙薬は仕入れておきますから。今はこの人が自力で生活できるように訓練をしてください」
「お、おい!」
平野は抗議の声を上げたが、白鳥は無視して立ち上がり、恐れと不安に支配された婚約者を見下ろす。そこには商人としての――同心の時には見せなかった――冷徹な側面が露わになっていた。
「あなたが何と言おうと、僕の意思は変わりませんからね。これからもあなたの下で、働かせてもらいますよ」
それは決意というにはあまりにも後ろ向きで、情けないものだが、その若者の目には、ある種の強烈な感情が渦巻いており、それを察せぬ平野ではなかった。
しかしその察しの良さが命取りとなった。
白鳥が踵を返した瞬間、下女が平野の着物を剥ぎ――あまりに流麗な動作で、しばらくの間、裸であることに気が付かないほどだった――医師は縫合した傷口を眺めた。
「なっ!」
「あいつには借りがあるもんでねえ。悪いが、死んでも社会復帰させてやるぞ」
ここ数日で鈍り切った平野の体を触診する。
悲鳴と怒号に後押しされて、白鳥は別宅を出た。物陰から神平家の若い武士が様子を見ている。もう大丈夫だ、と手を振り、今日のうちに回っておかなければならない得意先の名簿を懐から取り出した。
唸り上がるような声で自分の名が叫ばれる。怒り狂った平野の顔が脳裏にはっきりと浮かんだ。木刀を持って今にも追いかけてきそうだ。
「……今度折檻されそうだな」
白鳥は身震いした。
とはいえ、結婚してしまえばこっちのものだ。あとは土下座するなり、縋りつくなり、何でもやる気だ。
だが、その為にはまず――。
「仕事するかあ……」
あまりに消極的な弱々しい声を上げ、大きく体を伸ばした。
市中は今日も今日とて喧騒に紛れている。今となっては白鳥でさえ、その一部だ。
彼は豆河通りの騒がしさの中に紛れ、同心だった日々を思い出していた。死にそうなほどの怠惰と、駆け廻るような忙しさとが同居した、不可思議な時間を。