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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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その後のこと①

 梅津神之助が死んだ。

 この報は瞬く間に広がり、他所での混乱もすぐに収束した。もちろん母屋の方でも。信者達は武器を捨て、投降したそうだ。

 一連の騒動による死者は千をゆうに超え、特に神平家での死傷者が多く、そこだけで少なくとも六百以上の死体が積み上げられた。

 客殿での死闘を生き延びた三人は、すぐに診療所へと移され、特に神平は三日もの間、生死を彷徨った。

 その数日後……。

 ほとんど怪我もなかった白鳥は、神平家の屋敷の、とある一室にいた。そこでは神平が寝込んでいる。その哀れな姿に満面の笑みを浮かべつつ、心にもないことを口走った。

「いやぁ、無事で良かったですねえ」

「……何とも感情のこもっていない言葉だな」

「まさか! 抱きついて口づけとかしましょうか?」

 神平は唾を吐くふりをした。

 診療所から戻って早々、彼は記憶のない三日間のことを聞く為に、あらゆる人を寝床に呼んでいたのだ。そして今日、白鳥の順番が回ってきた。

 神平は分厚い綿の布団の中で随分と心地良さげである。白鳥の家にある座布団の三倍くらいの厚さがある。

 その顔には活力が戻り、生来の悪戯っぽさが面上に宿っている。白鳥はその枕元で、この三日間のことを話した。

「……まず、梅津の死体です。信者達が一目見ようと押し寄せて、ここでもまた争いになりました。それから豆河通りの被害状況の調査も。具体的な数字を聞きます?」

「止めておく。心臓が止まったら困るからな」

「……勝手方の連中が死にそうな顔をしていましたよ。元通りにするのに二十年はかかるでしょうね。どこもかしこも金がない」

 神平は苦々しげな顔をした。

 大戦が終わって早五十年。財政の硬直化は目も当てられない。どこかを削れば、それこそ人間の体を傷つけるが如く、痛みと傷と、そして憎悪を呼び起こすわけだ。

 白鳥はそれからも長々と市中西部の惨状について話した。神平は一々頷き、その溌剌とした若者の晴れやかな顔を目に焼き付けた。

 ふと、白鳥の口が止まった時、神平は彼の腰に視線を落とした。

 そこにあるはずだった二振りの刀は既に返納されている。大して役にも立たないなまくらだったが、町人がそれを持つことは許されなかった。

 白鳥も視線の意味に気が付いた。軽くなった腰をさすり、晴れがましくはにかんだ。

「……荷物がおろせて清々します」

 その表情に神平は笑いを堪え、肝心要のことを尋ねた。

「同心達はどうなった?」

「怪我人ばっかりです。今は地方から武士が送られてきて、統率を取るのに苦労しているみたいですよ。少なくとも第二八番隊の隊長さんはそう言っていますね」

 ピイピイとさえずるカルガモのような新入り達に苦慮する河津の姿が思い浮かぶ。

 結局、第二八番隊は二人が抜けた。隊長であった平野はその怪我から、そして白鳥は天野屋のあとを継ぐために。

「……役人に戻るという道もあったろう?」

「ええ、もちろん。ただ、忙しい癖に薄給で、働く気力が湧かないんですよねえ」

 その率直な発言にも神平はさして気分を害したりしなかった。全くその通りだったからだ。用もない老人ばかりが富を食み、若者はそれに絶望する。我慢の末の狂気が梅津神之助だったのだろう。

「神平家も、代替わりだそうですね?」

「うん。清之助に譲ることにした。もうどうしようもないしな。この傷だらけの老体に鞭を打ったって、出てくるのは血反吐と悪態だけさ」

 白鳥は肩をすくめた。

 行き掛けに見たが、清之助にはもう神平家の男としての矜持が出来あがっていた。彼はその高貴な血筋に見合うだけの勤勉さを持ち合わせているようだった。

 ……それに御用商人と顔を会わせれば、会釈をするだけの謙虚さも芽生えた。

「ま、神平家には贔屓にしていただきたいですよ」

「……君の心掛け次第だ」

 神平は口元を露悪的に歪めた。あとは何てことのない雑談に終始した。

 話題も尽きると、白鳥は早々に退散することにした。横に置いていた大きな桐の箱を抱え持って立ち上がる。神平が唖然とした顔を向けてきた。

「……何か、気の利いた言葉を言った方がいいですか?」

「いや、いらんが、あの女が承諾するかは分からんぞ?」

「うんと言わせるのが商人としての腕前です。それをお見せしましょう」

 そう言って白鳥は部屋を辞した。

 神平は頼もしげにその後ろ姿を見送った。天野屋も安泰だろう。……逆に白鳥屋は恐ろしく大きな鯛を取り逃したのかもしれない。

 戸が閉められ孤独になると、神平は苦々しげに口元を歪めた。

 まさか娘を――あの冷厳で近寄りがたい娘を――貰い受けようという若者がいるとは思いもよらなかったからだ。

「何か、御用でしょうか?」

 咳払いをすると部下が一人入ってくる。彼もまた傷を負っていた。梅津の騒動による爪痕は、そう易々と消えてはくれない。

「諸々準備をしておけ」

 彼はその意味を悟って、おずおずと言った感じで頷いた。

 上手くやれよ、と神平は内心で独語し、今後その話が酒の肴になるように、願わずにはいられなかった。

 一方、桐の箱を抱えた白鳥は、神平家の武士に伴われ、広大な敷地を横切っていた。

 客殿はすでにきれいさっぱり取り払われ、今は建材置き場になっている。雑木林の先にある母屋の方からは鳶や大工が奏でる威勢の良い音が聞こえた。

 この屋敷は活気がある。これがいつ豆河通りに戻るのかは分からない。薄情な商人が、市中の中央部にある別の大通りに店を移したなんて話ももちろんある。

「ここは、すぐに再建されそうですね」

「まあ。随分とお金を使いましたから。それでも無事な建物があって良かったですよ。当主とお嬢さんが一緒の部屋にいるなんて……考えただけで吐きそうだ」

 あの日、怪我を負った平野は一晩を診療所で過ごした。

 医師の話によれば、生死の境を彷徨う父親の隣で、静かに眠っていたという。そして翌日には意識をはっきりとさせて、自分の足でこの屋敷に戻った。

 とはいえ、肉体には傷が残っているし、こちらだって無事だったわけじゃない。

 屋敷に戻ってきた翌日には、またしても立ち上がれなくなって、結局別宅で今でも横になっている。

「……平野さんの容体、どうです?」

「どうでしょうねえ。主に心の問題だそうですよ」

 今となっては父親よりも容体が安定しないのだという。

 神平の方は早晩、起き上がって動き出すだろう――何せ食欲も旺盛だし、女を連れ込んでいるともっぱらの噂だ――が、平野はまだ床についたまま、ぼんやりと天井を見るだけの毎日なのだそうだ。

「……同心を続けられないのが、よっぽど堪えたんですかね」

 梅津に叩き斬られた後遺症は心身に大きな影響を与えた。

 医師は持てる全ての力を尽くしてくれたが、もちろん限界はある。彼の話によれば、平野の右腕には障害が残ったのだそうだ。つまりは剣が握れない。

 この事実を、気に病まない白鳥ではない。

 自分さえどうにかしていれば、彼女が一人で梅津と対峙することはなかっただろうし、あの崩れ落ちる倉庫の下敷きになることもなかっただろう。

 全ては自分の責任だ。白鳥は抱えていた桐の箱を強く持ち直した。ならば責任をとるのが務めだろう。

 それに、そんな後ろめたいことだけが彼の決断を後押ししたわけでもない。

 天野屋に入って数日、思ったことがある。

 あの老獪な老主人と円満に過ごすのは困難だ。それに毎日のように来ては嫌味を言う兄の応対にも時間を取られる。最近迎えた丁稚の小僧が生意気なこともある。

 すなわち白鳥の手には負えなくなっているのだ。

 あの晩、梅津と似ていることを認めた。彼の失態は主体性のないままに人の上に立ったことだ。自分があの道に落ちなかったのは、その主体性を誰かが与えてくれたからである。

 誰がくれたのかなんて、考えるまでもない。

「本当にねえ。商人になんてなるもんじゃないですよ」

「武士だってやめた方がいい」

「……遊んで暮らせるのが一番ですねえ」

 それが無理だと分かっていても、ぼやかずにはいられなかった。

 神平家の敷地内にある別宅は元々側室の為に作られたらしい。その為、別宅といえども下級武士の屋敷より、よっぽど立派な作りになっている。背の低い松の木が箱型に切り揃えられ、その足元を椿が覆う。

 武士にとっては縁起が悪いが、側室にとっては都合がいい。椿の散りざまは正室に対する主張にもなる。

「最近は覇気もないですが、気を付けてくださいね」

 生垣を越えたところで武士は立ち止まった。

 目覚めたあとの平野は、あの恐ろしい眼光を振りまいて、手がつけられなかったという。

 その様子に気圧されてか、下女なども最低限の仕事しかしなくなった。つまりは広い屋敷の中で、彼女はたった一人なのだ。……それは好都合、と言うのは白鳥の内心である。

「……虎や猪じゃないんですから。ちょっと睨まれるだけですよ」

 それに耐えられるのが凄いのだ。慣れや鈍感さの問題でないことは事実だった。武士の中にも、何年見たって怖いという者が数多いるわけだから。

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