梅津神之助の末路②
白鳥は震える膝を励まし、転がるようにして進んだ。
梅津の信者達は、この若者に特段の注意を払わなかった。明らかに丸腰だったし、武術の達人のようにも見えなかったからだろう。それよりも奇声を上げて躍りかかる同心や武士と戦う方に集中せねばならなかった。
神平家の屋敷は今まさしく火柱を上げて燃えていた。
けたたましい音を立てて建物が崩れ、その度に火の粉が舞って白鳥の肌を焼いた。
中は想像を絶するほどの混戦だ。いつも神平家を守る若い武士達が武装を万全に整えた状態で戦いを繰り広げている。その体が炎に照らし出され、鎧が怪しく輝いている。
敷地に足を踏み入れ、すぐに立ち止まった。
梅津はこの五年、漫然と過ごしていたわけではないのだ。彼の信者達は、それこそ長年研鑚を積んできた武士と遜色ないほど練磨されている。
鍛え上げられた男達が、くんずほぐれつしながら土にまみれ、血飛沫を浴び、汗がそれらを混ぜて流していく。
超近視的に見れば、一つの争いで勝者と敗者が生まれる。生き残った者が隣の戦いになだれ込み、さらに闘争が激化する。どこか一つで勝敗が付いたとしても、大局的に見ればその認識が誤りだと明らかになる。
個別的な戦いでいえば、神平家の武士が勝っているように見えた。
彼らは洗練された戦士だ。生まれた頃からその運命に身を任せ、持ち前の勤勉さで生き残ってきた。汗と泥と血にまみれた姿は、まさしく屈強さを体現している。
にもかかわらず、何故だか白鳥の目には、梅津の信者達が押しているように見えた。その奇妙な齟齬に答えられる暇のある者は、その場に限っては誰一人としていない。
だから、白鳥は恐る恐る戦場を遠回りした。
そこには炎とは違う熱気が渦巻いている。むっと来るような激情の波動で、あっという間に汗を掻いた。
信者の一人が錯乱した様子で眼前に躍り出てきた。それを横から神平家の武士が斬り捨てる。とはいえ、ほとんどの人の目に白鳥は映っていない。戦いは、まるで流れ作業のように次から次へと目の前に現れるのだ。
乱戦を繰り広げる前庭の向こうでは、あの荘厳な母屋は半分が崩れていた。残った半分にも火が放たれていて、いつ燃え落ちるか……さして遠くもないだろう。
それを目の当たりにした時、やっと違和感の正体に気が付いた。
河津の姿がなかった。そして当然あるべき梅津の恵比須顔も。あともう一つ言うなら、神平も見当たらない。
彼らはどこにいるのだろうか。まさか焼けた建物の中でのたれ死んでいるとは思いもしないが。
激戦の余波は母屋の裏手には見受けられない。ほとんどがあの前庭でとどまっているのだろう。燃え盛る炎も遠のき、しんと静まり返った夜の一部が垣間見えている。
そこにもいくつか死体が転がっている。生きている者は一人としていない。彼らは月明かりさえ差さぬ場所で、無情にも死に絶えていた。
だが、その死者の列ははっきりと一つの方向を指し示していた。そちらの方角に、庭園と絢爛な建物が見える。
死体を辿って着いた一帯には松が並び、竹やミズキ、梅、紅葉、カエデと様々な種類の木々が青々と茂り、小川が流れ、澄んだ水が苔むした池に流れている。水面には蓮が浮かび、その隣に頭上の月が映り、水際に一人の少年が倒れていた。
慎重に近付くと、彼は呻き声を上げながら、池の方に手を伸ばした。月光に照らされた横顔に見覚えがある。平野の甥っ子だ。
少年――清之助は傍らで膝をついた白鳥に鼻先を向け、水、と呟いた。
白鳥は手を杓にして水を汲み、清之助に飲ませてやった。彼は白い喉を何度も鳴らし、都合四杯飲んだところで、ほっと一つ息を吐いた。
「……状況は? 当主はどうなった?」
その顔は血と泥で汚れている。額についた汚れを拭ってやりながら、白鳥は呟いた。
「分かりません。僕も今来たところです」
「……目が見えん。俺は死ぬのか?」
清之助は白鳥の腕の中で身じろぎをした。腹は真っ赤に染まっていたが、血は止まっている。目が見えないのは泥が入ったからだ。
「一眠りすれば気力も湧くことでしょう」
「いい、慰めはいらん。お前は誰だ?」
白鳥はふと口をつぐんだ。同心と名乗る資格はない。かといって白鳥屋の次男坊というには実家に居場所がない。では、自分は何と答えるのが最適だろう、と考え、鼻を鳴らした。
「白鳥です。白鳥徳次郎」
「……同心か?」
「いえ、……今は一応そうですが、あなたが目を覚ました時には違うでしょうね」
清之助はくつくつと笑った。その表情はどことなく平野に似ている。いつぞや屋敷で見た時よりも、ずっと険相が取れている。
彼は震える冷たい手で宙をまさぐった。白鳥がその手をとると、そのまま腕を辿って彼の頬を撫でた。
「そうか……お爺様は奥の客殿に逃げた。河津が上手くやりおおせているか、心配だ……」
確かに河津がへまをやらかしていないとは考え難いが……。いくらなんでも今ばかりは一流の武人としての才覚を如何なく発揮していることだろう。
母屋の方で再び歓声が上がった。何かが起こったのだろう。その音を聞き、清之助は身じろぎをした。
「では、俺は自分の運命に身を委ねてみる。お前も、お前の心に従って動け」
「僕の、ですか?」
「逃げるか行くか、お前の心は決まっているのだろう? ならば迷うなと言っている」
清之介は憑き物のとれたさっぱりとした笑みを浮かべていた。それがあまりにも平野に似ていて、白鳥は頬を真っ赤にした。
「分かりました」
そうして清之助をあとに残し、客殿へと足を踏み入れた。