梅津神之助の野望⑥
「白鳥!」
平野は、いつも見ないほど必死な顔で部下の名を呼んだ。
白鳥の方はといえば、まだ体が動かずもがくばかりだった。梅津は悠然と振り返り、佩いていた剣を抜き払った。
「……ふふ、騒がしい女が来たじゃないか」
息を切らした平野は躍りかかってきた男をなぎ払い、再び梅津を睨んだ。その場には三人しかいない。彼女は着物の袖で剣の刃を拭って、目をひんむいた。
「梅津、神之助……!」
その声は震えている。そういえば初対面なんだな、と白鳥は関係のないことを思っていた。
女上司の顔を見た途端、急に気が軽くなったのだ。どうにかなるだろうという予感があったし、いつも彼女がどうにかしてきたから。
梅津は穏やかな笑みを浮かべていた。彼は平野の華奢な体を上から下まで眺めやった。
「今、白鳥君と話をしているのだ。君はあとにしたらどうだ?」
平野は髪の毛を逆立たせていた。青ざめた顔で、体には怒気がみなぎっている。
「黙れ! 梅津……何をしに市中へ戻ってきた?」
「ふふ……今の今まで白鳥君を信用してさえいなかったくせに、随分と大きなことが言えたものだな」
だが、梅津と対峙した平野は、きっぱりとかぶりを振った。
「信用していないはずがないだろう? 河津が言ったならともかく」
こんなところで蔑まれる河津も河津だが、白鳥は目をぱちくりとさせた。平野も不敵な笑みを浮かべると、梅津は呆れた様子で首を振った。
「……だが、今、君はたった一人だ」
「他の連中はお前の仲間達を逮捕しに行っている」
平野は吐き捨てるように言い、剣を中段に構えた。梅津は嗜虐的な笑みに切り替え、無形の姿勢を取った。
その一瞬、白鳥は言い知れぬ恐怖を味わった。梅津は誰が思うよりも剣の達人だ。平野では勝ち目がなく、河津でさえ互角か、それに劣るだろうという直感がある。
「ひ、平野さん!」
何とか声を振り絞るが、平野は何も言わなかった。彼女の目ははっきりと梅津を捉えていた。それ以外の物が見えないほどに。また、そうでなければ殺されてしまうだろう。
梅津は冷笑を顔に張り付け、必死の形相を浮かべる平野は汗みずくで余裕もない。
「……確か、神平家の御息女だったな」
平野は眉間にしわを寄せただけだった。彼女は神平家と関わるのを他人が思っている以上に嫌っている。父親にもそうだし、あの甥っこに対してもだろう。彼女は平野静であり、神平静ではないのだ。少なくとも今、この時は。
平野はそれでも冷静だった。笑う梅津を睨みつけ、その隙を探っている。時折牽制に出て、彼の反応を探っていた。
「父親の方は良いのか?」
ピクリ、と平野の眉が動いた。肩に僅かに力が入り、切っ先が揺れた。梅津はそれを全く見逃さなかった。
「私は、あの男を殺すぞ」
「……」
「こんなところで油を売っていて、いいのか?」
ざっと沈黙が走った。梅津は悠然と相手を見下ろしている。平野の方はまだ汗が止まらない様子だった。
段々と肩の動きも大きくなっている。対峙している二人の間で何が起きているのか、白鳥には全く分からなかったけれども、良くない方向に傾きつつあるだろう。
脳裏には戸田家の屋敷での斬撃が思い浮かんでいた。背中の皮を一枚残すような神業だ。あの血溜の中に沈む平野の姿を考えると、ぞっと怖気が走った。
何とか体をもがかせた。先ほどの打撃の余波がまだ残っているが、動けないわけではない。身を起こすぐらいならば今すぐにでも出来そうだ。
(ただ、今動いたら殺されるだろうな……)
自分の真ん前にいる梅津は、もちろんのこと白鳥の動きに気付いていないわけじゃないだろう。ならば機が来るまで、静かに待ち続けるだけだ。
「……関係ないな。死ぬならそれまでの人だった、ということだ」
強がるように呟いた平野は、汗みずくで蒼白だ。望んだって手に入らない何かを渇望しているように見えた。蜃気楼の湖に必死に手を伸ばしているようだ……。
梅津はにんまりと笑い、上段に剣を構えた。その圧倒的なまでの威圧感に、白鳥は思わず喉を鳴らしてしまった。
月光に照らされた二つの影は、全く声も発さずにぶつかりあった。腕力も技量も梅津の方が格段に上だ。
刀身が激しくぶつかり合った時、一瞬火花が散り平野の顔が照らされた。彼女の予想の範疇を超えていたのかもしれない。苦しげに顔を歪ませ、呻くような声と共に梅津の体を受け流した。
二人の体位が入れ替わる。梅津の真後ろには倉庫の入り口がある。月光を背に受けて、面上には影が帯びている。
しかし彼は逃げるそぶりを見せなかった。むしろ不敵に笑って、平野にもう一度ぶつかってこいと挑発する。
「平野さん……」
頼れる上司の背を見上げつつ、白鳥が情けない声を上げる。すると彼女は梅津から一切目を離すこともなく、そっけなく言った。
「手間ばかり掛けさせて……。あとで折檻だぞ」
白鳥は口をへの字に曲げた。
再び平野が斬りかかった。梅津はその斬撃を軽々と受け止め、弾き、そして胴にめがけて猛烈ななぎ払いを見せた。
それを辛うじて回避した平野の着物の裾が斬られて落ちた。梅津はその様子にますます笑みを深めた。
「……首を持って帰るのも面白いと思わないか?」
彼の剣の切っ先には淡い赤褐色の液体が付いていた。見れば平野の右手から一筋の血が流れ出している。
「そうだな。お前の首を持って行くのもいい」
平野はぎこちなく口元をたわめ、そして再び斬りかかった。
その激しい斬撃の応酬に、思わず見とれてしまった。その時ばかりは、平野も全身全霊、まさしく命を賭けて決死の攻撃を仕掛けている。
梅津でさえその気迫には圧倒されていて、軽やかに足踏みをしては回転し、平野の予想を超える場所から剣を振り抜いた。
その苛烈な激突は、しかしそれほど長い時間は続かなかった。
平野の右腕についた傷から、先ほどよりも多くの血が流れたのである。彼女は顔を苦痛で歪めて、梅津に渾身の拝み打ちを放った。
その一撃は、相手が梅津でなければ真っ二つにしてもおかしくない勢いを持っていた。
しかし梅津は、その笑みを僅かに怯ませ、こめかみから冷や汗を流しながら受け止めた。平野は左手で剣の柄を握り、微かに湾曲した刃の峰を血に濡れた右手で押さえつけていた。
梅津の体が僅かに傾いだ。今、この瞬間しかない! 白鳥はぱっと立ちあがり、梅津の腰にしがみついた。