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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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踊る死体⑦

 そんなわけで、この西地区の番所にいた全ての同心が三つ又屋の近くに配置された。

 彼らはそれぞれ恬淡を装って、通りの角や建物の近くに張りこんでいる。

 辺りは黄昏をやや過ぎようという頃であった。宵闇に足を踏み入れ、徐々に建物に火が灯り、市中の西地区も闇がはびこるようになった。

 取り乱した様子の茂吉は、それから気が狂いそうになるまで同心達によって言い含められ、丁稚の小僧と共に三つ又屋に戻ることになった。その足取りは重く、もはや十二歳かそこらの丁稚よりも子供のように見える。幼児退行してしまったかのように泣きじゃくる茂吉を、この少年が何とか宥めすかしていた。

「でも、まさか茂吉さんが殺すなんて……」

 とある通りの角に立っていた白鳥は、建物の壁に額を打ちつけていた。

泣きたくなるのを辛うじて堪えられたのは、傍らにいる平野がいつもより恐ろしい顔をしているからであった。

「話しはあとだ。あれが狂っていないと証明出来たら、お前にいくらでも棒を打たせる権利をやる」

「要りませんよ。さっさと起訴して、僕の前に出さないようにしてください」

 そんな話をしているうちに、辺りが暗くなってきた。

 張り込んでいる同心達が提灯に火を入れる。その淡い光に照らされた、影のかかった顔が真剣さを帯び始めていた。

 だから白鳥も気を引き締めた。まだ望みはあるのだ。善一郎の死体を見たといっても、判別できないほど顔が潰れていた。もしかすると、という藁よりも脆い希望が白鳥の唯一の支えであった。

 と、その時、河津が声を上げた。

「おや、誰か出てきましたね」

 彼の指差した先で、闇夜にうごめく影が三つある。その内、茂吉の影が突然尻もちを突き、辺りをつんざくように泣きだした。次いで丁稚が折り目正しく膝をついて、周囲を震わせるような絶叫を上げる。

 それで近くにいた同心達が、勢いよくその三つ又屋の裏手の通りに飛び込んだ。

 誰かが提灯を投げ込んだらしい。それが音を立てて燃え上がった。その光に映し出されて、しゃがみ込む茂吉と丁稚の傍らに、一つの影が立っているのが見えた。

 十人ばかりの同心が、立っている男の顔を見ようと駆け寄る。その男は悠然と、握りしめていた金槌を振り上げた。

 丁稚の判断がなければ、茂吉は死んでいただろう。この少年が慌てて茂吉の腕を引いたから狙いが外れた。焔に彩られた金槌が、狂った手代の腿に振り下ろされて、彼は声を上げてのたうち回った。

 その隙に河津と平野が間に割って入り、退路を断つように五人の同心が男の背後を取った。

 遅れてやってきた白鳥は、その見てはならない現実を目の当たりにして、これ以上ないほどの悲鳴を上げた。

「ぜ、善一郎さん!」

 確かに、そこに善一郎が立っていた。

赤褐色に染まった金槌を握り締め、憎悪を宿した双眸を茂吉に向けていた。

「善一郎じゃない!」

 男が叫んだ。その顔は確かに善一郎そのものなのだが、しかしよく見てみると、確かに彼よりはずっと陰気な印象のある顔立ちだった。

 白鳥が絶句すると、その後を平野が代弁した。

「では、お前は誰だ?」

 彼女の視線は男の持つ金槌に釘付けだった。何故か男の手ごと真っ赤に染まっている。彼が打ったのは茂吉の腿であるから、血が出るような状況ではなかったはずだ。

 男は険しい顔を平野に向け、歯を食いしばった。

「俺は惣二郎だ」

 その言葉に、またしても白鳥が絶句する。どこかの世界に飛んで行こうとした彼の意識を保ったのは、ひとえに隣に立っていた河津だ。彼が活を入れてくれなければ、白鳥はそのまま気絶していただろう。

 平野はその様子に鼻を鳴らし、その面差しを微かに歪めた。

「……惣二郎、死んだと聞いていたが?」

「俺は死んでいない!」

 そこで惣二郎は金槌をもう一度振り上げ、不用意に近づいてきた同心に振りまわした。それで皆が再び距離を取り、この陰気そうな男を視界に収めた。

「……俺達は双子だった。あの母親は俺達を生み、そして試練を課したんだ」

 平野が首をかしげると、惣二郎は両手で顔を覆い、その忌まわしい記憶を脳髄の奥底から引きずり出した。

「最初は記憶にもない赤子の時だ。どちらが早く歩き出すか、言葉を話すか。次に子供時代だ。どちらが社交的か、そして弁術や算術に興味を持つか。十になるまでずっと比べられ続けてきた」

 唸り声を上げ、忙しなく辺りをうろつく惣二郎に、今度は白鳥が声を上げた。

「まさかとは思いますが、時々、善一郎さんと入れ替わっていたんですか?」

「そうだ。俺達の母親は、初めからどちらか一人だけを選ぶつもりで、弟の方を名目上、殺すことにした。交替で俺達は善一郎を装った」

 惣二郎が苦しげに首を振った。

 どちらかが善一郎になるはずで、それを兄弟が二人で奪い合い、弟が敗れた。

「あの女は、俺を蔵の奥底に閉じ込めた。善一郎は決着がついたあとも、俺を外に出してくれたんだ」

 そこで惣二郎は震えるような溜息を漏らした。鋭く茂吉を睨み据え、もう一度金槌を振り上げた。

「それが! この男が! 善一郎を殺した。あいつは生きるべき奴だったのに、こいつが殺した。何度も、何度も金槌で頭を打って」

「だからって、茂吉さんを殺したって――」

 と言いかけたところで、白鳥はとある現実に気が付いた。血に濡れた惣二郎の手を見て、恐ろしげに声を振り絞った。

「まさか、お母さんを殺したんですか?」

 惣二郎はそこで鋭く白鳥を睨んだ。金槌を握り締めたまま、決然と。

「善一郎が死んだなら、俺の憎悪を止める奴はいない。あいつが死んだ時点で、俺も死んだんだ」

 そこで言葉を切り、白鳥に向かって薄く笑みを浮かべた。

「俺は善一郎の一部だ。お前だって、俺を善一郎としか呼ばなかったじゃないか」

 惣二郎の目に涙が盛り上がった。

「もう、俺は生きていられないんだよ……」

「そんなはずはありません。だって、この市中だけが世界の全てじゃないでしょう?」

 惣二郎の頬を涙が振らした。彼は初めて自由に外を出ることを許されたのだ。 善一郎の存在がなくなり、同じ顔を持つ人間に憚る必要がなくなった。彼は初めて、誰の気兼ねもなく表の世界に飛び出してきて、そして自分を殺した人間を始末した。

「お前には分からないのさ。存在を奪われたことがないんだからな……」

「それは……! でも、三つ又屋から逃げることも出来たでしょう?」

 と言った白鳥に対して、惣二郎は白い歯をむき出しにした。その殺気だった様子は、とてもじゃないが善一郎の穏やかな印象とはかけ離れていて、彼が惣二郎なのだということを如実に示していた。

「だからお前はお坊ちゃんなんだよ、徳次郎。お前には分からないことだ!」

 月光が薄く通りに差し込んで、惣二郎の持っていた金槌を鈍色に煌めかせた。 その光に茂吉が怯えた声を上げ、惣二郎は冷たい視線をそちらに向けた。

 そして、その一瞬の気の緩みが彼にとっては命取りとなった。

 薄闇の中、突如として動きだした平野の、華麗な体当たりをまともに食らったのだ。

 彼はもんどりうって倒れ、体にしがみつく平野に金槌を振り上げようとした。

 しかし、その腕を河津が強引に取り、素早く捻りあげる。大きな唸り声と共に金槌を取り落とす重たい音が聞こえて、白鳥は息を張りつめた。

 彼は言葉を失ったまま、惣二郎が同心達に捕らえられるのを見ているしかなかった。

 やがて五人の同心に取り押さえられ、惣二郎が動かなくなると、力を失って膝を地面についた。

「他に生きる道もあったはずです……」

 それは夜の静謐を破るには、いささか大きさが足りないようだったが、喚き散らす惣二郎は、はっきりと聞きとっていて、その血迷った視線を白鳥に向けた。

「ない! 俺は善一郎として生きるしかなかった!」

 存在を奪われた者の慟哭が月夜を鋭く切り裂いた。

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