梅津神之助の野望⑤
波が押し寄せては引き、砕ける音が響いた。
大槌で殴られたみたいに頭はくらくらとしている。どこか冷たい場所に寝かされているみたいだ。身動きをしようにも体が動かず、無様にもがくしかない。
うっすらと目を開ける。濃い闇が停滞していた。顔をあちらこちらに向けるが、深淵の底にいて何一つとして捉えることが出来なかった。
どうやら港沿いの倉庫にいるらしい。目は見えずとも他の感覚は働いていた。
鼻は潮の臭いを捉えていた。そして周囲には干した魚の類があることも。肌は寝かされているのが石造りの場所なのだと告げていた。耳だって、表に二人の男がいること、彼らが忙しなく歩き回っていることをきちんと把握していた。
闇の中でぼんやりしていると、梅津のあの笑顔が思い浮かんだ。何度首を振ったって今度は離れてはくれない。
そのうち、足音がもう一つ増えた。
表にいた二人が足を止め、何やらぼそぼそと話している。その頃には白鳥の意識もほとんど正常に動き始めていた。確かあの時、突然梅津がやってきて殴られたのだ。
ややもあって扉が開けられた。
潮騒の音が大きくなる。ざっと月光の白銀が差し込み、それに晒されながら、梅津神之助が入ってきた。彼は白鳥を睨んで、やはりあの笑みを浮かべた。
「やあ、起きたか? ふふ、まだ動けないだろう? 鍛錬不足だ」
白鳥は身を起こそうとして無様にもがき、のたうつようにして何とか梅津を睨んだ。
「……何を、するつもりなんです?」
「何? 君が察している通りだ」
白鳥は顔を歪めた。どっと汗が噴き出して、着物が肌に張り付く。月光に晒された梅津の顔に必要以上の恐怖を感じた。
「何故、僕をここに?」
白鳥は切羽詰まりながら尋ねた。すると梅津は、ふん、と鼻を鳴らした。
「君には落胆したからだ。私は何度も言ったはずだろう? 君の周囲の人間は、君を良いように使いたいだけだ、と」
「それが――」
何だと言いかけて口をつぐんだ。その時初めて、梅津の表情が苦痛に歪んだからだ。
「君は優れた人間だ。誰が思うよりも。もちろん君が実感している以上に。だからこそ君は自覚しなければならなかった。君は人に使われる立場ではなく、使う側の人間なのだということを」
「……でも」
「望むか否かに関わらず、君はそういう立場の人間であるべきなのだ。しかし、君はそれを承服しなかった。楽な方へと流されて、結局今の居場所にしがみつこうとしている」
白鳥は口をつぐんだ。梅津の面上から笑みが消えていた。彼は真面目に、そして言い知れぬ苦痛を堪えるように、白鳥を見下ろしていた。
「君が思うほど、私は楽天家ではないぞ」
「え?」
その不意の一言に、白鳥は唖然とした。梅津は再び表情を失った。先ほどまでの苦悶はどうやら腹の底で鎮まったみたいだった。今の彼はそれよりも恐ろしい、無関心に満ち満ちていた。
「私は、私一人がこの世界を覆せるとは思っていない」
「……」
「私の意思は受け継がれ、人々の中で芽吹くのだ。分かるかね? つい先ほどまで君が感じていた疑問を、市中はおろか全ての人間が抱くようになる」
白鳥は喉を鳴らした。
「それに……何の意味が?」
「君は疑問に感じたことがないか? 人は生まれながらにして何故、立場に差異があるのだろう、と」
無邪気でいられるほど子供ではなく、かといって現実を無条件で受け入れるほど大人でもなかった頃、ふと考えたことはいくらでもある。結論はいつも同じだ。それがこの国なのだから、というところで終わってしまう。
この中津国は帝とその一族の下に七傑がおり、さらに下にあらゆる人々が存在している。それはつい五十年前の大戦によって決定づけられたものであり、その枠組みの中で生きていくことに疑問などなかった。
けれども、梅津は疑問を抱いたのだ。その当たり前の感覚に。
「私はかつて、一度だけ帝とおめもじしたことがある。教養もあり、朗らかに笑う人だった。父はその事実に興奮していたが、私は違った。この男は私と何が違うのだろうと考えるようになった」
血筋だろう、と白鳥は内心で即答した。流れている血が違う。帝は生まれながらにしてその地位に就くことが約されていただけだ。
「……君はこう言うのだろうな。血筋だろう、と」
図星を突かれて白鳥は顔を歪めた。梅津は微かに歪んだ笑みを浮かべ、溜息をついた。
「あの男には青い血が流れているのか? 本当に特別なのか?」
白鳥は無言だった。その通りだと肯定できるほど、尊王的な思想を持った人間ではなかったから。
「では、七傑はどうだ? あの男達は特別か?」
「それは……そうでしょう? 彼らもまた血筋が――」
「果たしてそう言い切れるのか。一体いつ、誰が、血の繋がりを証明したのだ?」
梅津は明らかに苛立っていた。彼は拳を握りしめ、まるで演説でもするみたいに、その拳を振り上げた。
「五年前に殺した男がそうだったぞ。奴は外から嫁いできた母親とその愛人の子供だった。つまりはただの人だ。それがのうのうと兵衛家の当主になっていた」
「……それが、五年前に事件を起こした理由?」
「全てではないがな。しかし、私の思想に反する男だった」
今の中津国は、ただの人間を神と同一視して、崇め奉っている歪な状態だ。同じ人間であるならば、人間らしく下に落ちろと言いたいのだろう。
周囲を見渡し、梅津は声をひそめた。
「君の中に、私の疑問は残ったか?」
「え?」
「私の葛藤を理解したかと聞いている。それに納得するか否かは無関係だ。理解できたかと問うているのだ」
白鳥はおずおずと頷いた。梅津は平等な世界が創りたい。その為には帝とか七傑とかいうものは障害にしかならない。……全ては人が人であるために。
「……ならば再び問う。君はどちら側につく?」
それは死へと至る質問だ。
白鳥はその事実を察し、冷や汗を掻いた。どちらであろうとも死が待ち受けている。梅津の案を受け入れたところで、到底理解の出来ない思想だからぼろが出る。もちろん否定したら殺される。
梅津の顔を見ているうちに逡巡が訪れた。これまで後回しにしてきた将来への質問を、最悪の形で最悪の人物から投げかけられたのである。
勝手方の友人に言われた時、もっと真剣に考えておくべきだったと悔やんでみるが、無体なことだった。
「それは……」
白鳥は、自分が冷静沈着な性質だと思っていたが、どうやら違うらしい。それまで冷静さを欠くような出来事が起こってなかったから、そうあり続けられたのだ。
今、梅津に問いを投げかけられて、激しい動揺に包まれていた。
汗が吹き出し、血液がドロドロと流れて意識を混迷へと蹴落とす。泥濘の中を這い進むような倦怠感が体を包み、答えの出ない問いが脳内を渦巻いた。
そうした瞬間に思うことは、自分はどんな人間なのかということだ。白鳥屋の次男坊で、うだつの上がらない役人で、下っ端の同心でもあった。ただそれだけだった。それ以上も、それ以下も、望みはしなかったはずだ。
その原点に立ち返れば、答えはすぐに見えた。
自分が大層な人間じゃないと自負している。その事実を誇らしく思ってさえいる。自分は自分の出来る範囲で、精一杯生きてきたはずだ。あの喧騒に満ちた豆河通りで。
答えようと口を開きかけたところ、けたたましい音が倉庫の入り口から響いた。
白銀の光の下で男が倒れていた。梅津の部下だ。血をしとどに流し、それがまるで水たまりのように広がっている。
「あ……」
白鳥は思わず呟いてしまった。なだれ込んできたのは平野だった。