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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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梅津神之助の野望④

 それから夕暮れまで、老主人と過ごした。

 話すのは他愛のないことだ。漁師共はがさつだとか、店はもっと綺麗にした方がいいだとか、これからどんな魚の旬が来るかとか。

 白鳥の心は偉大なる浮揚感に包まれていた。新しい決意を胸に秘めた瞬間に抱く興奮である。足に羽が付いているみたいに軽やかに動き、それがより一層気持ちを楽にした。

 胸の内にあるのは父のことだ。そりゃ、昔から反発しあってきたわけだから、今の関係を壊すことは出来ないだろう。

 けれども、今まででのような、無視されているのだ、という卑屈さは持たずとも良かった。兄に対する引け目や劣等感も嘘みたいに引いていった。

 思えば父は頻繁に白鳥を店に呼んでいた。これだって意地悪な部分もあっただろうが、裏を返せば商人としての感覚を忘れさせないようにする為だったとも捉えられる。

 期待の表れだったのだろうか……。

 そんな考えを巡らせている間だけは、自分の境遇だとか、梅津のことだとかは頭の中から抜け落ちた。

 自分はこれからどうすべきだろう、という茫々たる展望が眼前には広がっていた。しかしそれは夜明け前の、東の空が白みだした大海原のようなものである。

 現実の世界では、ようやっと宵闇の刻限に近づき始めていた。西の空が紅蓮に燃え上がり、東の方から濃紺の濁流が押し寄せている。

 港から出ると、まだ混雑する豆河通りを避け、それよりも二本ほど離れたところにある小道を進んだ。

 そちらにも店はある。しかしほとんどが戸を閉ざしていた。もう終業だ。大通りとは一風違う小規模な居住地兼店舗が夜の中に佇んでいる。

 その薄暗い通りに、いくつかの明かりが見え隠れしていた。家々から漏れるものではない。誰かが往来しているのだ。その明かりは忙しそうに左右に揺れていた。

 不思議な光景だった。夜になって店が閉まると、一帯は静まり返るのに。人が死んだのなら、それなりの騒ぎになるが、そういう雰囲気でもない。

 では、なぜ人が集まっているのだろう?

 思わず首をかしげてしまう。ひと気のないところに人が集まる。泥棒か、さもなければ……。

 と考えたところで、白鳥の体から高ぶった感情が奪い取られた。

 ほんの一瞬――瞬き一つにも満たない間だろう――提灯の明かりに照らされた、冷笑を浮かべた顔が見えたのだ。

 背筋にぞくっとくるような悪寒が走った。身が強張り、どっと体中から汗が噴き出した。高く跳ねた心臓が激しい混乱を引きずり出した。

 白鳥はその場に立ち尽くし、じっとその忙しそうな男達を見続けた。彼らは作業に熱中している。

 そこは豆河通りから二本離れただけの通りだ。

 もちろん同心の警邏も行なわれるし、番所だってすぐ近くにある。まさか梅津もそんな場所にはいないだろうと思いつつ、固まったように動かない足を叱咤しながら、何とか前へと進んだ。

 闇夜に浮かぶ明かりが徐々に近づいてくる。忙しそうに立ち働く男達の中に梅津の姿はなかった。

 その事実にほっと胸をなでおろしたが、すぐに気を引き締めた。

 荷車に山積みにされた木箱をとある商家の中に運び入れている。黙々と作業をしている姿があまりに異様で、白鳥は頬を伝う冷や汗を指先で拭った。

「……何をしているんでしょうね?」

 思わず、呟いてしまった。もう荷車の木箱はほとんどなかった。男達はすっかりその商家に入りこんでいる。

 辺りは夜としての姿を取り戻している。それ胸をざわめかせる。落ち着きを奪われ、腹の底では不安の虫が蠢動していた。

 沈黙がたゆたい、時が流れを忘れたような、真なる静寂が白鳥を包んだ。

 その不意の感覚に心臓が不自然に脈打ち、激しい動悸に直立を保てなくなった。白鳥は片膝をつき、その恐ろしい感覚をやり過ごそうと大きく息を吐いた。

 その直後だった――。

 腹を揺さぶる豪蕾の如き爆音と、夏の嵐を思わせる肌を刺す熱気と、そして衝撃波が体を襲った。周囲が震えあがり、地面にひびが入り、夜の静謐が半瞬だけ打ち払われた。

 体中のあらゆる感覚が揺さぶられ、叩きつけられ、あっという間に麻痺してしまった。

 閃光が迸ったあとは狂おしい紅蓮の大輪が市中を彩った。白鳥はその猛烈な輝きに息を止め、唖然とした表情のまま尻餅をついた。

「火事だ!」

 と近くに住んでいた男が叫んだ。

 するとそこここから男達が飛び出してきて、現場を確認しに行く。そのうちの一人が、へたり込んでいる白鳥に近付いてきた。

「坊ちゃん、ひとっ走り火消しを呼んできてもらえませんか?」

 彼らはこの白鳥屋の次男坊が、よもや爆発の現場を目撃したなどとは考えていないようだった。むしろ突然のことに驚き、すくみ上がっている小心者に見えていたはずだ。

 白鳥は何度も頷き、火事が起きたと叫びながら、豆河通り沿いにある火消しが駐在する屋敷に飛び込んだ。

 もちろん先ほどの爆音には気付いている。すでに何人もの火消し達が用意を済ませていた。彼らは親分が出ていくと、慌ただしくあとを追った。

 そのがらんとした屋敷の土間で、白鳥はへなへなとへたり込んだ。表では慌ただしい男達の怒号や、女子供の泣きじゃくる声が聞こえていた。

 あの時――あの男達を見た時――梅津の幻影に騙されることなく、止めに入っていたら何かが変わっただろうか。

 ちらと外を見る。明け放たれた玄関の向こう側では、濃紺の夜空がまるで夕焼けのように赤く染まり、雲にしては低い位置に灰色のもやがはびこり、豆河通りは人の濁流に飲み込まれていた。子供の甲高い慟哭が騒然とした空気をつんざいた。

 ギュッと心臓が握りしめられたような、激しい痛みが胸に生じた。呼吸が浅くなる。

 玄関を隔てた外側では、これ以上ないほどの混乱が起きているというのに、屋敷の中は全く平穏だ。

 激しい耳鳴りで音も遠ざかってしまうと、彼の世界は現実から遠のいた。

 自分のせいで引き起こされたのかもしれない、と後ろめたい気持ちが心に深い影を落とした。体中から力が抜け、冷たくなって動かない。

 その隙をつくようにして後ろでうごめく気配がある。

 恐る恐る振り返る。そこに立っていた男に悄然とした声を上げてしまった。

「う、梅津さん……」

 先ほどの光景は決して幻想なんかではなかったのだ。

 梅津神之介は、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべたまま近付いてきた。

 抵抗する余裕はなかった。彼は表情を一切崩さないまま白鳥の顎を拳で打ち抜いたからだ。

 視界が暗転し、白鳥の体は土間に崩れ落ちた。

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