梅津神之助の野望③
「何?」
朝方追い出した部下が昼間に戻ってきて、平野は不機嫌そうだった。だが、それにも怯まず、白鳥は必死に訴えかけた。
「ですから梅津が、今晩から動きだす、と」
「……お前にわざわざ言いに来たのか?」
「え? ええ……それに、僕の筆を殺害現場に置いていったことも――」
「もういい」
平野は煩わしそうに手を振り、それ以上口を動かすことを許してくれなかった。そのそっけない様子に白鳥は口を尖らせた。
「信じてくれないんですか?」
その不満げな口ぶりに、平野ははっと顔を上げた。
その冷厳な表情は、白鳥を無言で責め立てているように見えた。少なくとも彼はそう感じた。
そんな時に思い出すのは、対照的な表情だった梅津だ。彼はいつでも笑顔で話を聞いてくれる。導いてくれる……。
いや、すぐに否定した。
平野にだってそういう側面はある。何度も首を振り、頭を振り、梅津の顔を追い出した。前を向くと、平野は眉をたわめて怪訝な顔をしている。
彼女にそんな顔をさせるつもりはなかったのに……。不甲斐なさに嫌気がさしてきた。
ただ同心としての職務を全うし――ひいてはこの人の役に立ちたいと思っていただけなのに。
「何でもないです」
白鳥は肩を落として言葉を撤回した。
襖を開けると、河津を筆頭とした他の同心達がなだれ込んで、平野は鋭い舌打ちを浴びせた。どうやら聞き耳を立てていたらしい。
白鳥は、そんな男達など相手にせず、さっさと廊下に出た。
「おい」
平野はまだ困惑の極致にいるようだ。珍しく言葉に詰まっている。白鳥が首をかしげると、彼女は四苦八苦しながら白い喉を鳴らし、声を絞り出した。
「気をつけて帰れよ」
その瞬間、今度こそ白鳥はむっとした。何の返事もせずにさっさと番所を出る。同心達はその様子を揃って窺っていた。
だが、すぐに平野の怒号が飛び、そんな同心達もまた蜘蛛の子を散らすようにして外に飛び出した。
「いい機会だからゆっくり休めよ」
脇を通り抜ける時、河津がそっと肩を叩いてくれた。他の同心達は目も合わさず、さっさといなくなってしまった。
こうして再び白鳥は一人になった。同心でも、商人でもない。手持無沙汰な一人の若者として。
とぼとぼとあてもどなく、人込みに揉まれた。
実家のある方へは行きたくもなかったから、自然、港へ向かう流れに乗っていた。
今日も水平線が日差しに照らされてきらきらと輝いている。船が海原を切り、港では男達が汗みずくで働いている。
脳みそはずっと動きっぱなしだ。梅津に言われた言葉が今でも蘇る。
すなわち、自分とは何かという根源への問いだ。
勝手方の役人には戻れない。商人として父や兄のいいなりになる気もない。同心として立身出世をする気にもならない。
では、自分はどうやって生きたらいいのだろう? 何をすればいいのだろう? それが分からない。
「おや? 白鳥屋の坊ちゃん」
物憂げな顔で歩いていると、突然とある商家の前で声を掛けられた。
看板を見ると、天野屋、と書かれていた。その店先では好々爺と称して差し支えない老人が、杖に寄りかかりながら椅子に腰かけていた。周囲の店と比べると、活気は皆無だ。
「……天野屋さん」
こんなところで会うのはいささかばつが悪い。白鳥屋は恐らく、強引に話を進めているのだろうから。
次男に仕事を辞めさせて、ここを継がせます、と胸を張って言う父親の姿が思い浮かぶ。その傲慢な態度に、天野屋の老主人は何を思っただろうか。
「お茶でもどうですかな?」
彼は日に晒された褐色の顔に笑いじわを寄せた。もう髷を結う髪の毛すらないらしく、剃髪した卵型の頭が輝いている。
白鳥は微妙な気分だった。天野屋の老主人が何を思っているのか、まるきり見当が付かなかったからだ。
けれども老主人はそうと決めると行動が早い。
よたよたとした足取りで店の奥に消え、これまた震えながらやかんと茶碗を持って戻ってきた。
その危なっかしい様子に手を貸す。どうやら年を取ると血の巡りも悪くなるようで、さほど寒くもないのに火鉢を置いている。
その上にやかんを乗せた。男二人でずぼらだから、布の袋に茶葉を入れて放り込む。きっと茶道家が見たら発狂するに違いないが、白鳥も老主人も、水の味でなくなればそれで満足だった。
「……ま、その辺に椅子もありますから」
老主人は呑気にそんなことを言った。
白鳥は溜息をつき、ざっと店の中を見渡す。椅子を引っ張り出し、慎重に埃を払った。
「ほっほ、商品に付かんようにな」
天野屋の老主人は目を細めた。元々大店だったから、今でも取引がある。各種様々な海産物が店先には並べられている。それに傷をつけるなと言っているのだ。
「ああ、すみません」
謝りつつ椅子に腰かけた。
取引は多そうだが、老人は働いていない。
今はほぼ無人の取引所になっているわけだ。二人が呑気に茶を啜っている間にも、どこかの商人が来て魚の一夜干しを買っていったし、漁師が活き魚を置いていく。老人は朗らかな笑みで見守るだけだ。
「……この店、本当にお継ぎになるのかな?」
もう一杯茶を淹れようかとやかんに手を伸ばした時、不意に老主人に問いかけられた。白鳥はぴくりと動きを止め、姿勢を正した。
「それは……」
口ごもる白鳥に老主人が視線を向ける。老いた琥珀色の瞳が日に照らされて透き通り、かつての溌剌とした力が微かに見え隠れする。
「あなたのお父上が来ましてな。次男が継ぐからと言ってきたのですよ」
やっぱりな、と白鳥は力ない笑みを浮かべる。
確かに梅津の言う通り、次男ならばどう扱っても構わないと思われているのだろう。けれども老主人はきっぱりと首を振った。
「いやいや、随分と真剣に頭を下げてくれましたよ」
「え?」
「同心のまま置いておきたくない、と」
白鳥は目をぱちくりとさせた。老主人は笑みを浮かべていたが――ある意味では梅津と同じようなものだ――抜け目のない眼光を湛えてもいた。その冷めた視線に気が付いて、白鳥はますます背筋を伸ばした。
「商人としての腕がないわけではないが、自分では上手く扱えない、と申しておりましてな。どこかに良い店はないかと常々尋ねられていたとか……」
「父が、ですか?」
「ええ、あなたのお父上が。素直じゃありませんなあ、あれも。昔っから変わらない」
「はあ」
父親の昔話を聞かされるほど、子供にとっては微妙な時間もそうはあるまい。しかし、老主人は全く気にせず話を続けた。
「あんたのお爺さんも、ひいお爺さんも同じだった。息子には昔っから厳しいんだな。特に期待している方には。それでいて見る目があるから、誰も彼もが期待する」
「……」
「この辺の奴は皆、お兄さんじゃなくてあんたに期待しているわけだ。こいつは連綿と続く、白鳥家の宿命みたいなもんだろうね」
老主人は優しげな顔をしていた。その節くれだった手で、白鳥の手に触れた。
「あんたのお父上も、お爺さんと喧嘩して、家を飛び出して、結局戻ってきた。お爺さんも、ひいお爺さんも同じだった。中には戻ってこないのもいたが、野たれ死ぬ奴はいなかった」
二人の間を潮騒の音が駆け抜けていく。海風が吹き、老主人は身を縮こめた。白鳥は近くにあった半纏を渡し、温かい茶を彼の湯飲みに注いでやった。
「……こりゃどうも。あんたのお父上に言われた時、私は二つ返事で快諾しましたよ」
老主人を見ると、彼は海風に晒された古臭い看板を見上げていた。
先代の頃から使っている逸品なのだという。豆河の天野屋といえば、かつては屈指の名店として数えられていた。
それが凋落したのは、跡取り息子が今なお海に出たまま戻らないからである。養子を取らぬのは、息子が帰るかもしれないからだ。誰もが噂していて、もちろん白鳥も承知していた。
それを今、彼は継がせてもいい、と言ったのだ。
「……二代続いたこの店を潰すのも忍びない。私が生きているうちに来てくれりゃあ、それでいい」
老主人はくつくつと笑い、あと十年はここで海を眺めるつもりだ、と消え入りそうな声で付け加えた。