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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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梅津神之助の野望②

 その翌日のことだった。

 番所へと出勤した白鳥は、夜番の同心達の目を気にすることもなく、床に上がった。運悪く上司が先に来ており、特等席でのんびりとするのは諦めて控室に向かうことにする。

 声を掛けると、聞き慣れた女性の返事がある。……その余韻に強張ったところがある。

「失礼します。あの――」

「白鳥」

 昨晩のことを話そうとした白鳥の機先を制し、平野が声を上げた。その顔はいつになく青ざめ、脂汗が浮いている。彼女はぎこちなく喉を鳴らした。白鳥は襖を閉め、上司を見やった。

「お前、自分の筆はあるか?」

「え? ええ」

 と言って愛用の筆を取り出した。新調したばかりで、まだ手に馴染んでいない。

 平野はそれを見て、顔に張り付いた険相をますます深めた。

「それは新しい物だな。古い物は?」

「はい。……あ、その、戸田の時に」

 そこで白鳥はぱっと思い出し、戸田家での一件を目撃したあとに失くなっていたことを告げた。

 すると平野はその美しい顔を苦しげに歪めて、目を逸らした。初めてのことだった。彼女にそんな顔をされるとは思わず、白鳥は眉を寄せた。

「あの、それが何か?」

 昨晩のことも忘れて、白鳥は女上司ににじり寄った。彼女はまだ目を伏せたままだったが、やがて懐から細長い包み紙を取り出すと、それを自分の執務机の上で広げた。

「あ!」

 そこにあったのは白鳥の筆だ。戸田家で失くした物だ。白鳥が不用意に伸ばした手を叩き、平野は内心に湧きたつ激情を全て眼光に乗せて睥睨した。

「これは証拠品だ。触れるな」

「え?」

「昨日、駒野という同心が殺された。ここ最近、奴は梅津の関与が疑われる事件を追っていた。それが今朝になって、真っ二つの死体になって見つかったんだ」

 駒野のことは覚えている。戸田家の屋敷で案内をしてくれた男だ。……それが殺された?

「それは……」

「その現場にこいつが落ちていた」

 白鳥は目をひんむいた。つまりは自分が関連していると思われているのか? だが、平野はきっぱりと否定した。

「お前に出来ないことは誰もが分かっている。だが、梅津の姿を見たのはお前だけなんだ。意味が分かるだろう? お前も関係者なのではないかと疑われている」

「そんな! 僕は――」

「だが、こうして証拠が出た!」

 その平野の怒声は、取り乱した白鳥を絶望の淵に追いやるには充分だった。彼女は胸部を大きく膨らませ、きっぱりと言い放った。

「刀と印籠を置いていけ。お前は停職処分だ」

 その言葉に愕然としたが、平野は容赦せず、視線も逸らさなかった。

 つまりは覆すことの出来ない決定事項なのだ。佩いた安物の刀に未練はないけれど、平野の信頼を傷つけた事実は良心を苛んでならなかった。

 白鳥は刀と印籠を平野の執務机に置き、膝の前で握った両手に力を込めた。ちろりと舐めた唇は嫌というほど乾いていた。

「……昨晩も梅津を見ました。西の漁村にある廃寺で、彼は仲間達に何かを渡していました」

「何だと?」

「でも、もう誰も僕の話なんか信じないでしょう?」

 昨日の梅津の呟きが脳内で渦巻く。白鳥は視線を上向けた。

 彼女は呆気に取られた様子で、片方の眉を吊り上げていた。白鳥は再び視線を伏せ、深々と頭を下げた。

 同心達に疑わしげな視線を向けられつつ、失意のまま番所を出る。その直後に平野の鋭い声が飛んだのを、彼は全く聞いていなかった。

 逃げるようにして長屋に戻ってくる。

 手ぶらで、明らかに落ち込んだ様子の白鳥を見て、近所に住む誰もが沈黙を保った。それほど今の姿は情けなく映ったのだ。

 自宅の戸を閉めたところで膝を折り、戸にもたれかかって地面に尻をついた。もう立っていることさえ出来なかった。泣きそうに歪んだ顔を覆い、涙がこぼれないように天を仰ぐしかない。

 部屋に入って早々、そんな辛気臭いことをし始めた若者を、呆れた様子で見ている人物がいた。

 彼は勝手知ったるとばかりに茶を啜っていて、今にも泣きそうなその若い同心に、気を使うように柔らかな声を放った。

「君、顔を洗った方がいいぞ」

 その声を聞き、白鳥は自分の体が硬直するのを感じた。

 恐る恐る指の間から部屋の中を覗くと、そこには苦笑を浮かべた梅津がいた。彼はその微妙な沈黙を憚ってか、懐から羊羹を取り出してかじり、再び湯呑に口をつけた。

「どうした?」

「……何で、ここにいるんです?」

「何故って、人に信用されない悲しい若者を慰めるためだろう? 君も来い。茶も羊羹も旨いぞ」

 梅津は笑みを深めた。

 心にぽっかりと穴が開いている今の状況では、そんな優しさが胸に沁み入る。彼の笑い声に引き寄せられて、草鞋を脱いだ白鳥はふらふらと近付いた。

「……ま、座れ」

「ここ、僕の家ですよ……」

 梅津はくつくつと笑い、傷心の若者が一口ずつ茶と羊羹を口にするまで黙って眺め、彼の口が咀嚼で動きだすと、豆の出来た硬い手のひらで背中を撫でた。

「気にするな。あの連中がその程度だったというだけだ」

「……どういうことです?」

「真摯に働いている君の本質を、見抜けなかったということだ」

 梅津は全く笑みを崩さずに言った。そこに見出せるのは、艶のない黒曜石のような、無機質な色だけだった。

 その瞬間、白鳥の体の中に恐怖がぶり返した。そういえばこの男は、目的の為なら平気で人を殺す男なのだ……。

 その機微を見逃さなかったのだろう。梅津は白鳥の肩を叩き、一歩分だけ身を離した。

「そう警戒するな。君のことを認めているんだ」

「でも、あなたは……あ、それに、現場に僕の筆を置いていったでしょう?」

「ふふふ、君の周辺の人間を試しただけだ」

 半月形に歪められた梅津の唇から柔らかな笑い声が漏れた。

 その何でもないような口ぶりに、白鳥の心は引きずられつつあった。それが本当に何でもないことかのように思えてならなかったのだ。

 彼の笑顔にはそんな魅力が内包されていた。

「だが、これで分かったろう? 君を真に評価している人間などいないということが」

「それは……」

「あの連中だけじゃない。家族も、君を過小評価している。君になら何をしてもいいと思っているんだ。君でない誰かでも出来る仕事を、尊い君に押し付けているに過ぎない」

「……」

「だが、私は違うぞ。君にしか出来ない仕事を与えることが出来る。どうだ? 今日も私についてこないか?」

 また、戸田邸での惨状が脳裏に浮かんだ。白鳥がかぶりを振ると、梅津はちょっとだけ寂しそうな顔をした。

「無理強いはすまい。だが、今晩から私は行動を移す。五年前の再戦をここに宣言する」

「え?」

「今から番所にとって返してもいいぞ。君の言葉を信じる者はいない。君の居場所はここにはない。だが、私ならば与えられるのだ。それだけは忘れてくれるな」

 そう言い置き、梅津は部屋からいなくなった。

 その静かな挙動をぼんやりと見送り、白鳥は口をぽかんと開けた。

 梅津が放った言葉を理解するまでには、それこそ羊羹一つを腹の中に収めるくらいの時間が必要だった。

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