梅津神之助の陰謀②
「おい、大丈夫か?」
それほど白鳥の顔色は普通じゃない。蒼白で、唇は紫がかっている。まるで冬に水浴びをしたあとのように、体から震えが取れなかった。
「だ、大丈夫です……」
と返すものの、どう見たって大丈夫じゃない。触れた手は氷のように冷たくなっている。河津は、ちらと上司に目配せをして、近くの、ひと気のない部屋に移動した。
そこは藺の香りが強い、六畳ほどの部屋だった。ここまで来たのは二人だけだ。河津は甲斐甲斐しく白鳥を座らせ、井戸の水を汲みに出ていった。
「ほれ」
渡された水を煽る。冷たい感覚が喉を通り抜け、胃に落ちた。その些細な衝撃にさえ耐えきれず、白鳥は吐きそうに、えずいた。
「酒か? 病気か?」
河津が半笑いで顔を覗きこんだ。いつもなら彼の髭をむしりたくなるが、今は何とも心強い。白鳥は固くなった喉を鳴らし、竹で出来た水筒を強く握りしめた。
「……平野さんを、呼んできてください」
「お嬢を? それだけでいいのか?」
白鳥は無言で頷いた。
程なくして引きずられてきた女上司は大層不機嫌そうだったが、部下の到底考えられない憔悴ぶりに感じる部分もあったらしい。表情を和らげ、彼の前に座った。
「どうした?」
平野の声色は普段よりも抑えられていた。その優しげな余韻を前に、白鳥は縋るようにして彼女の眼光を捉えた。
しかし、言葉が出ない。口をパクパクと動かし、苦しげな呻き声を上げた。
遠くの方では同心達の声が響き、昨晩の静寂は欠片もない。けれども脳裏ははっきりと覚えていて、呆気に取られた戸田の顔や、しとどに流れる血液、他にもいくつかの悪臭や心臓の鼓動の音などがぶり返しては心を苛む。
「……き、昨日のことなんです」
とぎれとぎれに何とか言葉を絞り出す。黙って耳を傾ける平野の表情には、整然とした正しさが伴っていた。梅津のそれとは異なり、白鳥の心をちょっとだけ楽にした。
それに後押しされて、ポツリポツリと言葉を漏らす。
三たび梅津と出会ったこと、彼と彼の仲間達に連れられてこの屋敷に入ったこと、その手口、戸田に対する仕打ち。
筆を落としたことは言えなかった。話しているうちにすっぱりと頭の中から抜け落ちてしまったのだ。
「……い、以上です」
白鳥は正座をして口をつぐんだ。膝の上に置いた拳に汗が滴り落ちた。
平野は身動き一つ取らない。今、どんな感情が渦巻いているだろう。鋭い罵声を浴びせかけられるだろうか。それとも現場に引きずられるか。あらゆる可能性がぐるぐると渦巻き、白鳥は強く目を閉じて顔を伏せた。
「……そうか」
けれどもそうした悪い考えは、全て空想の彼方に置き去りにされた。
平野の艶やかな黒髪が揺れて瑞々しい女性の香りが鼻孔をつく。直面したのは思いがけない上司の姿だった。
平野は柔らかく微笑み、そっと白鳥の肩を叩いた。
「よく話してくれた。……お前がその場で何も出来ないのは致し方あるまい。私や河津だって同じ行動をとるだろう」
「でも……」
答えを遮るように平野が首を振る。彼女の中で先日の動揺は消化されたみたいだった。
「いい、気にするな。だが、一つだけ教えてほしい。梅津はこの屋敷の人間に入れてもらったんだな?」
呆気に取られながら頷いた。
平野が目配せをする。間髪いれずに河津が部屋から出ていった。要するに面通しだ。どの人間が梅津の仲間なのかを探ろうというのである。
すぐに屋敷の人間が中庭に集められた。
昨晩、梅津達を招き入れたのは年老いた下男と下女だった。頭の中を必死に掻きまわし、その提灯の明かりに照らされた顔を思い出す。
が、白鳥はすぐに落胆することになった。
「いません」
「……いない?」
その言葉に白鳥は愕然としたまま、もう一度家人を一人ずつ確かめていった。
「はい。いません」
平野が咳払いをした。忠犬よろしく河津が戻ってくる。
「……見つかりましたか、お嬢?」
「いや、いないらしい。今日姿が見えない者がいないか、探せ」
河津は頷き家人の元へと戻っていく。聞き込みの結果、確かに二人、今朝方から姿が見えないという。
「……ええ、ただ、どちらもここ数か月のうちに入った連中みたいで」
話を聞き終えた河津は厳しい顔で報告をした。平野の方はそれ以上に冷厳な表情で、その消えた二人について調べるよう命じた。
「……さて、お前についてだが」
再び二人きりになり、平野が苦々しげに顔を歪めた。どのような命令が来るのだろう。白鳥は膝の上で握った拳に、さらに力を込めた。
「もう帰れ」
「え?」
思わぬ言葉に肩透かしを食らう。だが、平野は大真面目だった。
「……梅津は何故か、お前の前にだけ姿を現している。この意味が分からない以上、お前に捜査をさせるわけにはいかない」
「そんな! 僕が梅津と共謀しているかもしれないからですか?」
これは同心達の間でまことしやかに囁かれていたことだった。さもなければ死体を見過ぎて頭が狂ったのだろうと嘲笑する者もあった。
だが、平野は首を振った。
「……お前はそこまで馬鹿じゃない。だが、危険だ。目の当たりにしたというなら分かるだろう? 奴は何をするのか分からない」
「でも――」
「話は以上だ。番所に戻れ」
「あ……」
そのまま平野は部屋を出ていった。一度もこちらを見ることなく……。
残された白鳥は茫然とするしかない。
ただ一言、信頼している、と言って欲しかった。お互いの心の距離が知りたかったのだ。
馬鹿じゃない? 馬鹿じゃないのは自分だって分かっている。たった一人信奉する上司に認めてもらいたかった。
白鳥は脂汗の浮いた額を撫で、歯を食いしばった。自分がおかしいのか、彼女達の認識が甘いのか、判然とはしなかった。
しかし悔しさは残り、昨日の光景も相まって、彼の目からは涙が落ちた。それが袴をまだらに染め、腿に不快な感触を残した。