梅津神之助の陰謀①
筆が無くなっている……。
戸田家当主殺害の翌朝、身支度を整えている時に気が付いた。白鳥は部屋の中をひっくり返すほど探したが、どこにも見当たらない。
「……や、屋敷に落としちゃったとか……まさかね……」
とりあえずは予備の筆を丁寧にしごき、急場をしのぐことにする。
通勤の最中も気分は沈んでいく。昨日の光景が頭から抜けなかった。
あの事件の捜査をするのは中央部の同心達だろう。そこでもし筆が見つかったら、どう申し開きをすれば良いのか……。
番所の中は、いつも通り弛緩した雰囲気だ。夜番の同心達は大欠伸をするか、さもなければ居眠りをしている。
腹のむずむずに苛まれながら、日の当たる特等席に腰を下ろしたが、黙って座っているのだって苦痛だ。無意識のうちに仕事を探し、山積みになった資料と格闘することにした。
どれもこれも彼の仕事ではないが、今日に限っては幸いである。
夜番の連中はよほど疲労が溜まっているのか、仕事には手をつけていない。まあ、平野が来るまではそれでいいのだろう。来たら地獄絵図に変わるのだろうけど。
それよりも新しい筆に墨汁を浸す感覚は何物にも代えがたい喜びで、この時ばかりは心も躍った。
しばらくすると、夜番の同心達が跳ねるようにして起き出し、身支度を整えた。皆、あたかも一晩中仕事をしていたかのような、真摯な態度になる。
(もうすぐ来るんだな……)
思わず納得してしまった。
ほとんど間を置かずに引き戸が開けられ、曙光が差し込んだ。
上司である平野静が凛呼とした表情を引き締めて中に入ってくる。昨日のことはもう気にしないみたいだ。白鳥にも普段通りの眼光を向けた。
「おはようございます」
同心達は口を揃えて頭を下げた。もちろん白鳥もだ。平野はその様子を一瞥し、番所の中に怠惰な隙がないかじっくり確認したあと、大きく頷いた。
「ああ、おはよう」
草履を脱ぎ、土汚れをさっと落として床に上がる。普段なら、そのまま定位置である控室に向かうところだが、何故か彼女は立ち止まった。
「……白鳥」
呼ばれて、いつもより大げさに顔を上げた。表情が強張らないよう細心の注意を払う。平野は首をかしげていた。
「お前、いつもと筆が違うな」
嫌なところに目が付く人だ。内心で悪態をつきつつ、面上では平静を保った。
「え、ええ。ちょっと心機一転に」
何とか声を振り絞る。昨晩の惨劇が思い浮かび、かぶりを振った。
その様子に、どうやら勘違いしてくれたらしい。昨日の叱責を気に病んでいるのだろう、と。平野は表情を和らげた。
「そうか。……その仕事は早めに切り上げろ。河津が来たら外に行くぞ」
「どちらへ?」
「昨晩、殺しがあったみたいだ」
ドキッとした。白鳥は不用意に跳ねた心臓の辺りを撫で、怪訝な顔をしている平野を見やった。
「だ、誰が殺されたんです?」
「中央部の戸田家の屋敷で死体が発見された。当主らしい」
急に息が苦しくなる。相手の顔を直視できず、白鳥は浅く呼吸を繰り返した。
「……何故、僕達が?」
「何故? お前が関わった事件だろう?」
何を言っているんだと平野が呆れた顔をする。関わった、と言われると、何だかなじられているような気分だったが、考えてもみれば安川の件で、戸田には散々疑いを掛けていたのだ。
「そ、そうですよね。分かりました。変なことを言ってすみません」
白鳥はせり上がる胃の内容物を飲み込み、再び書類に戻った。
彼女の言った通り、全員が揃うとすぐに中央部にある戸田家の屋敷へと向かった。豆河通りの混雑はいつにも増して閉塞感が酷く、日差しもぎらついているように感じられた。
道中で平野が事件の概要を説明してくれる。当主が一刀両断にされたこと、その太刀筋が梅津のそれと酷似していることだ。
河津は真剣に頷いていた。一方白鳥は気が気でない。
いつ、昨晩のことを話せばいいだろう。早いとこ吐き出した方がいいのは分かっているが、道を歩く人の目が気になって、どうにも切り出せなかった。むしろ朝食の方を吐きそうだ。
人いきれに揉まれているうちに中央部にやってくる。戸田家の屋敷前で同心達が待ち受けていた。ご丁寧にも現場まで案内してくれるという。
これでまた話す機会を失い、白鳥は頭を抱えたくなった。屋敷の中では同心達が動きまわり、その物々しい雰囲気で昨晩の静けさは完全に霧消している。
前を行く同心――駒野というらしい――が生真面目そうな顔を険しくしていた。
「やはり梅津の犯行だと思われます。あの太刀筋、そして手際、どれを取ってもあれ以外には出来ますまい」
「……そうか」
平野もまた凛々しげな表情を引き締める。見れば同心達も殺気立っている。今だ梅津の姿を見た者は一人だけれど、目の前で五年前の再現を見せられたら、信じないわけにはいかない。
もちろん先導する駒野もだ。
「足跡から察しますに、犯人は複数いるでしょう。正門から中庭の方を回り、戸田の私室へと至ったようです」
彼らが今、歩いている道のりは、まさしく昨晩梅津と共に通った道のりだった。あのしんとした静けさはもうないが、薄暗い昨夜の光景が思い浮かぶ。提灯の明かりに照らされた梅津の顔も。
駒野は何も気にせず話を続けていた。
「家人は全く気が付かなかったようです。犯人は確かに、戸田一人を殺しただけですから」
「……戸田は一人だったのか?」
「良く分かりません。昨晩は女がいたとか、いないとか、証言が一致しないんです」
会話を聞いているうちに、白鳥は顔を蒼白に染めた。
腹の底からわき上がる吐き気で何度も瞬きをし、歯が打ち合い、耳障りな音を出している。浮き出た冷や汗を拭うと、体がふらついて河津とぶつかってしまった。
そこで河津は白鳥屋の次男坊の、尋常でない様子に気付いた。