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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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梅津神之助という男⑥

 夜の市中は静けさに包まれている。ひと気は全くなく、二人が歩く音だけが聞こえていた。梅津は、これから市中の中央部に行くのだという。

「戸田、という名前に心当たりは?」

「……僕が思っている人間かどうか、判断が付きません」

「では、安川はどうだ?」

 白鳥は頷いた。梅津の件がなければ、彼の頭を悩ませていたのはそれだろう。

「そうか。なあ、この国は少しずつおかしくなっていると思わないか?」

 梅津は頭上に広がる星空を見ながら、そう呟いた。

 何となく彼の顔を見るのも憚られて、白鳥も空を見上げた。良い天気だ。恐らく明日も晴れになるだろう。

 僅かな沈黙にも怯まず、梅津は言葉を続けた。

「……どこを見渡しても、血筋、血筋だ。確かに五十年前は良かっただろうさ。決戦の直後ならな。優れた人間が七傑と呼ばれるのに文句はあるまい。だが、今はどうだ?」

 どうだ、と問われても、白鳥の知る七傑など神平一人である。少なくとも、彼は良くやっている。町奉行もそうだし、神平家の経営に関しても。……父親としては落第だが。

「別に、いいと思いますけど」

 そう返すのが適当だったかどうか、白鳥には判断が付かなかった。それほど隣にいる梅津に圧倒されている。彼は化け物だ。威圧感が肌を刺激する。

「それは違うぞ、白鳥君。今の七傑も、その下で甘い蜜を吸う連中もそうだ」

 梅津はそこで言葉を切り、大きく息を吐いた。

「あの戸田だって同じだ。世間一般では名家の当主だと思われている。だが内実は、ただの横領犯だ。しかも安川のような忠臣を身代わりに立てて、今ものうのうと生きている」

「それは……」

「君だって感じていることだろう? 確かに血筋として残るべき、つまりは今の地位に座っていてもおかしくない人間はいる。だが、おかしい人間がいるのも事実だ。この国は狂っている。自然的な淘汰が起こらず、生まれ落ちた時の地位が固定されている」

 この論に同意するわけにはいかなかった。

 白鳥とて、そういう意味では淘汰する側、つまりは血筋として社会階層の上層にいるべき人間なのだから。

 そして梅津もその一員であった。しかし、彼の場合はもう過去のことだ。彼はその階層から逃げ出し、秩序を破壊するための闘争に身を捧げた。

「何が言いたいんです?」

 やっぱり梅津の方は見なかった。

 彼はねちっこい笑い声を上げ、提灯を少しだけ高く持ち上げた。すると道の先が少しだけ照らされる。気付けば、二人は市中の中央部に足を踏み入れていた。

 記憶が正しければ、戸田の屋敷の近くだ。その辺りは有力な武家が石垣で敷地を囲っている。白鳥の長屋など犬小屋にも劣る。豪奢な屋敷が白壁の塀の向こう側に小さく見えていた。

「私は、少しずつ世の中を変革しようとしているのだ」

 その言葉には冷たい余韻がある。白鳥は、そこで初めて梅津を見た。彼もまたこちらを見ていて、にんまりと笑った。

「やっとこっちを向いたな、君」

「……」

 目を逸らすことが出来なかった。梅津の眼光はそれほど活力と魅力にあふれていた。

「私は今から戸田を殺す。君にはその現場にいてもらいたいのだ」

「え?」

 その言葉を合図に、闇の中から這い出るようにして若い男達が姿を現した。彼らは白鳥の周囲を固め、逃げられないようにした。

「この五年、私は北の方に潜伏していた。そこで新たな力を得たのだよ」

 梅津はそう呟き、とある巨大な屋敷地の前で立ち止まった。

 そこは戸田家屋敷の正門だった。身の丈の二倍はあろうかという門扉が、きっちりと閉じられている。けれども梅津は一向に構わず、脇門を刀の柄頭で叩いた。

「何を?」

「君達は大きな勘違いをしている。私の信者は、今なお市中にあまねく存在しているのだ」

 梅津が呟くと同時に、その門が開けられた。中から顔を覗かせたのは、年老いた下男と下女だ。

「さあ、こい」

 梅津は仲間達に命じて、白鳥を強引に引きずらせた。

 屋敷の中はひっそりと静まり返っている。戸田家は七傑にも匹敵するほどの財と権力を持った家柄であるから、もちろん昼夜を問わずに多くの人出があるはずなのに。

 しかし、目の前に広がる現実として、屋敷の中は明かり一つ灯っていない。水を打ったように屋敷中が静まり返っている。

 梅津の信者達は大小を腰に帯び、中には槍を持っている者もあった。梅津はまだ提灯を掲げていて、その光が薄暗い廊下の闇を和らげている。

「……君は、戸田についてどう思う?」

 突然、梅津が質問を投げかけてきた。その黒々とした瞳が白鳥の心は激しく揺さぶる。自分達とは全く違う正義によって形作られた眼光が脆弱な精神を貫くのだ。

「どうって……」

「彼は安川を隠れ蓑にした、そうだろう?」

 否定も肯定も出来ない。事実はそうなんだろうが、証拠が一つもない。けれども梅津は笑みを深めて、夜の闇に閉ざされた屋敷の至る所を指差した。

「これが証左ではないか。あの男は富を築いている。弱者の人生を食みながら」

「でも……ただの推論です。もっと確固たるものがないといけません」

 梅津は、ふん、と鼻を鳴らした。

 やがて一行は荘厳な枯山水の中庭を抜け、屋敷の中で唯一明かりが灯っている一番奥の部屋に辿りついた。

「君には誤解をしてほしくないんだ」

 梅津はそう呟き、数歩分だけ先を行く。梅津の仲間達がより一層密集する。男達のむっとくる暑さと臭いに囲まれ、白鳥は鼻の頭にしわを寄せた。

 その部屋の中からは女の嬌声が響いてきた。同時に男の攻めるような声も。

 白鳥の目が捉える限り、梅津神之介は怒りに満ち満ちている。彼はその部屋の前に一人で近付き、振り返って白鳥を睨んだ。

「白鳥君……これが正義というものだよ」

 彼はそう呟き、障子張りの襖を勢いよく開けた。

 途端に部屋に満ちていた声が止んだ。

 梅津は大股で中に入り、その部屋でまぐわっていた男女――戸田が唖然とした様子で、女は艶然と侵入者を見ている――を見下ろしていた。

「何だ、お前は?」

 戸田は事態に気付いていない様子だ。彼にまたがっていた女がさっと離れ、部屋の隅に移動する。それを見ることもなく、梅津は冷淡な声で呟いた。

「安川に頼まれてまいりました」

「……何だと?」

「地獄までお供します、と。ちなみに、明野屋もそこに送っておきましたよ」

 梅津は急に笑みを引っ込め、冷徹な無表情で剣を引き抜いた。女は不思議と騒がなかった。その反面、戸田の方は勇敢にも武器を探して視線を彷徨わせている。

「武器を手元に置かず、それにも気付かぬ……」

「な、何が目的だ?」

「……女にうつつを抜かす支配者があるか?」

 梅津は冷たくそう言い捨て、強烈な袈裟斬りを披露した。

 戸田は一瞬、自分の身に何が起きたのかを理解出来なかったようだ。血に染まる梅津の刀を見上げ、それから自分の脂肪が詰まった腹を見下ろした。

 はらわたがまろび出ていた。布団では吸いきれないほどの血が噴き出し、戸田の体が真ん中から折れた――腰から上の部分が床に落ち、下の部分は布団の上で膝立ちをしている。

 背中の薄皮一枚だけが繋がっている見事な太刀筋だ。彼はそのまま小さく痙攣したかと思うと、悲鳴も断末魔もなく力を失った。

「さあ、行こうか」

 梅津はまた笑みを面上に戻し、白鳥達を屋敷の外まで連れていった。

 白鳥はぽかんと口を開けたままだ。ひっそりと静まり返る戸田家の屋敷を見るが、月光の中で森厳に佇んでいる。

 これまで同心として数多の事件を見てきたが、これほどあっさりと、しかも別段の私怨もなく殺人が行なわれたことに頭が追いつかなかった。

「白鳥君」

 梅津が笑みを浮かべて近付いてくる。恐怖が蘇り身を引こうとしたものの、目を逸らすことも、身動きをとることも出来なかった。梅津が肩を掴む。思わぬ力に白鳥は顔をしかめた。

「私はまた一つ、正義をなしたぞ」

 そう言って手を離し、彼らは一糸の乱れもなく闇の中に消えた。ただ一人、夜の静寂の中、白鳥だけが残された。

 彼は、愛用の筆が無くなっていることに翌日まで気が付かなかった。

 まさか戸田の屋敷に落としたのだろうか、とも思ったが、それを確かめに行くことは出来なかった。

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