梅津神之助という男⑤
仕事から追い出された白鳥の行き場は、ほとんどない。
彼は自宅である長屋に真っ直ぐ戻った。近所の奥様方が随分怪訝な顔をしていたが、彼の蒼白の表情を見れば、今日は仕事が出来る状態じゃなかったんだろう、と察する。
そんな視線から逃れるようにして家に逃げ込み、万年床となっている布団にごろりと横たわり、しみの出来た天井を見つめた。
あの男は確かに梅津神之助だったし、自分の感覚に疑いはない。その確信から、明野屋の店主と喜助を殺した人物は別だと言い切れそうだった。
(だけど、何だって僕の前にだけ現れたんだろう?)
疑問の答えは出ない。
その晩、河津が帰り道に寄ってくれた。白鳥の事情に、いささか同情的な気分でいるらしい。彼は終始、気遣わしげだった。
「……犯人、逮捕されたよ」
「そうですか」
「神田って荒くれ者だ。二件とも認めた」
「え?」
「明野屋の方も認めたぞ」
それはおかしな話だが、河津は苦々しくかぶりを振り、これで二件とも終わった、と告げた。……梅津なんて人間はいなかった、ということでお偉方は片付けたようだ。
「奴は梅津の道場に通っていたんだとよ。あの事件には関わらなかったが。というのも、ちょうどその時に、奴の両親に不幸があって、故郷に戻っていたらしい」
五年前、戻ってきた神田は随分と驚いたのだという。市中を離れていた数か月の間に、師匠も道場もなくなっているどころか、凶悪な事件を起こしていたのだから。
その後、彼は過去を忘れて静かに暮らしていたが、ある時から資金繰りが怪しくなり、明野屋や喜助から金を借りるようになった。それが積もり積もって返済に困り、二人を殺したのだそうだ。
随分と単純な事件だ。梅津なんて人間がいなくとも、事件は起きたに違いない。物憂げな白鳥に、河津はふっと表情を緩めて竹の包みを差し出した。
「……ほれ、握り飯。買って来てやったぞ」
「ああ、どうも……でも――」
「無理にでも食っておけ。で、お前、随分面白くないことになってんな」
「はい?」
渡された握り飯を頬張りながら、白鳥は片方の眉を吊り上げた。
「お嬢が困惑していた。梅津を見たんだって? 他の同心達はほら吹き呼ばわりだったぞ」
持っていた握り飯を竹の皮に戻し、白鳥は深く溜息をついた。
口をついて出たのは、ここ二日間のことであった。梅津との邂逅、そして二つの事件だ。
河津はその話を聞いて、気の毒そうな顔をした。
「まあ、連中の気も分からんでもないがな。当時は酷い有様だったし。一般人の中には、まだ俺達を無能だと罵る奴もいるからな」
「そうですか?」
「お前には覚えがないだろうさ。この五年、俺達が必死に名誉を取り戻したんだからよ」
その言葉が、何故か白鳥には罵倒のように聞こえた。相手が気を悪くしたのが分かったのか、河津は、この若い同心の肩を叩いた。
「気に病むなよ。皆が皆、疑心暗鬼になっているんだ。いっそのこと奴が姿を現せば、お前への疑いは晴れるだろうよ」
そう言い置いて彼は帰った。
先ほど付けた明かりが目の奥を刺し、鈍い痛みを引き起こした。あまりの煩わしさに吹き消し、暗闇の中で握り飯を食べた。
焦げ臭い、燃え残った火口の臭いをかぎながら、ぼんやりと部屋の隅に目を凝らした。
脳裏に浮かぶのは五年前の町奉行暗殺の件だ。確かに、記憶に残っている人も多いだろう。特に捜査をした同心達ならば、梅津という名前に警戒する人間もいるに違いない。
「はあ」
自分のうかつさに嫌気がさす。
眠気もやって来ず、かといって黙ってボーっとしている気分も霧消し、白鳥はあてどもなく部屋の中をぐるぐると歩きまわった。隣の部屋からは夫婦が盛る音がして、それがより一層彼の孤独を助長する。
何気なく引き戸の方を見た時だった。
張り替えたばかりの和紙が淡い光で照らされていた。急に顔が熱くなり、心臓が高く一つ跳ねた。そこに立っているであろう人物に覚えがあったからだ。
引き戸の向こうで提灯の明かりに照らされていたのは、予想通り梅津だった。
「やあ、こんばんは、白鳥君」
梅津が笑みを崩さずに言い、白鳥は天を仰いだ。何だって自分の前に現れるのか。平野の前に行って、殴られて土蔵に放り込まれればいいのに。
「まあ、歩きながら話そうじゃないか」
苦笑する梅津に首を振った。
けれども彼の、ぞっとするような視線に射抜かれ、体が動かなかった。梅津はそのまま、白鳥の手を引いて外の世界に引きずり出した。