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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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梅津神之助という男③

「……君の記憶が間違っていなけりゃ、こりゃ最悪の事態だな」

 同心はさして取り乱した様子もなくそう呟くと、平野の手から調書をひったくって元の通りに包み直した。

「じゃ、俺は帰って町奉行にお伝えしますんで」

「……まだ確証があるわけではない」

 平野が精一杯の反論をすると、この同心は口の端を歪めて笑った。

「死体の傷、見ましたよ。あれは梅津以外には不可能だ」

 同心は深い溜息を残して立ち去った。

 あとには嫌な沈黙が広がる。白鳥は、あの人相書に描かれた梅津神之助と、記憶の中にある梅津と名乗った男とを思い出していた。

 昨晩、自分は取り返しのつかないことをしたのだろうか? 心臓がギュッと収縮して血の気が引く。にもかかわらず汗が浮き、着物と肌が張りついて不快な感触を残した。

「まあ、気にすんな」

 と河津が肩を叩いてくれはしたものの、気休めにもならない。

「気にしますよ。これで何も感じないんじゃ、馬鹿みたいじゃないですか」

「そりゃ、そうだけどよ。でも、お前が危険なことをする必要はねえだろ? 大人しくしとけって」

「……何ですか、それ? どういう意味です?」

 白鳥は肩に置かれた手を払った。その剣幕に河津はぽかんと口を開けている。

「もういいですよ……自分の不始末は自分でつけます」

「おい、どうしたんだ?」

 急に番所から出ていこうとする新入りに、河津は怪訝な顔をした。平野は冷然と見つめている。

「ええと――」

 どうするんだも何もないだろう、と白鳥は内心で憤慨した。上司と同僚を睨みつけ、鼻を膨らませた。

「――その梅津という男を探します」

 素早く踵を返した。その背中に声が掛けられたものの、白鳥は一向に気にせず、番所の引き戸をぴしゃりと閉めた。

「……どうします?」

「放っておけ。私達は私達の仕事をするぞ」

 平野は冷淡にそう呟き、長年の部下である河津の襟首を掴んで引きずった。

 一方で白鳥は現場である明野屋の近くに来ていた。

 昼頃ということもあり、すでに普段通りの喧騒が繰り広げられている。人死にが出たというのに商人達は気も止めず、それどころか、店が開いていないことに憤慨する始末だ。

「たかが店主が死んだだけだろう? 商品は無事なのだろう?」

 と様々な人が明野屋の戸を叩いて尋ねていた。けれども、その店主の死体が異様だったからこそ、店はひっそりと静まり返っているのだ。

 白鳥は、そんな混乱ぶりを横目に、周囲の家々に聞き込んでいく。

 梅津のことを直接尋ねるわけにはいかない。明野屋に客が来なかったか、とか、恨まれるようなことはなかったか、などである。もちろん芳しい答えはない。あったら全て同心に話していることだろう。

 明野屋の下請けをしていた連中にも恨みはなかったかと尋ね回ったが――。

「……英助さんに不満? ないですよ。快く金も貸してくれるし、仕事だってこっちにも利益が出るよう働きかけてくれましたから」

「でも、本当に一人もいませんか?」

「もちろんです。……それよりも、明野屋さんは契約を変えるでしょうか?」

「さあ? でも、きっと悪いようにはなりませんよ」

「ああ、明野屋さんの援助がなけりゃあ、うちは商売あがったりです」

 ――大体が口を揃えてこんな感じだ。

 その日の捜査を終えた時、天蓋は煌びやかな星空に包まれ、豆河通りの混雑は消えさっている。

 帰路、冷たい夜風に当たり、白鳥は己の身を抱いた。提灯を持っていなかったから、頼りになるのは家々から漏れる明かりと、頭上から降り注ぐ月光だけである。夜の闇はそれほど濃く、けぶるようであった。

 脳みそが、ずっと動き続けていた。あの笑みを浮かべた梅津の顔が、今でも脳裏に焼き付いて離れてはくれない。

「……あ、安川の報告書、仕上げてないや」

 本来今日やるべきだった仕事を不意に思い出し、今の状況が酷く惨めに思えた。

 無様な使命と義務が雪のように堆積する。簡単に片付けることだって出来るのに、自分で抱え込んでは難しい顔をする。

 そうこうしているうちに長屋の列が見えてくる。

 昨晩は自宅近くで声を掛けられたんだったな、と思い出し、白鳥は肝を冷やした。

 何せ、五年前に国家を転覆させてやろうと目論んだ人間と、ああして普通に会話をしていたのだから。……いや、死んでいたと思われた人間が生きていたことの方が恐怖か。

 自宅のある長屋の門をくぐった。

 もうほとんどが明かりを消して、寝静まっているらしい。その暗がりの中、自分の家まであと十歩。九、八……。と数える白鳥の背中に声が掛けられた。

「どうも、こんばんは」

 その声に、体中からどっと汗が噴き出した。

 後ろには提灯を持った男が立っている。照らされた笑顔には不気味な影がうごめいていた。

「……梅津さん」

「おや、名前を覚えていたとは……光栄だな」

 そこにいたのは、やはり梅津神之助であった。あの人相書と寸分違わぬ笑みを浮かべた男が立っていた。

 彼は口を弓なりにたわめて笑う。

「昨日は、どうもありがとうございました」

 白鳥は戦慄していた。自然と歯が打ち合う。心臓の跳ねる音が耳奥でさらに速度を増す。心臓の音が速すぎる。……速すぎる。汗が止まらず肌を伝う。

 喉を鳴らし、声を上げたが、その言葉はかすれて誰の耳にも届かなかった。それで咳払いをする。今度はすんなりと出た。

「あなたが殺したんですか?」

「……君はどう思う?」

「あの死体の傷口は、あなたの剣術の作法と似ていると言っていました。それに――」

 と言いかけた白鳥の目に、揺れた提灯の残光が尾を引いた。梅津が近付いてきたのだ。あの笑みを浮かべたまま。

 極限まで細められた目の奥には隙のない鋭い眼光が閃いていた。それはまるで、血に飢えた野犬のような――河津が発する闘気とは明らかに違う――複雑怪奇な感情を内包していた。

「君はどう思う?」

 梅津が真っ直ぐ見据えて尋ねてくる。医師や、他の同心の考えが介在しない、純粋な直感が聞きたかったのだ。それに気付き、白鳥は唾を飲み込んだ。

「……あなたが、殺したと思っています」

「何故だね?」

 そう問うた梅津の顔は、やっぱり表面上は気持ちのいい、優しげな笑みが張りついている。しかしその奥底には誰も触れられない、どす黒くて粘度の高い悪意が混じっていた。

「理由は……ありません。同心として、こんなことを上司に報告することも出来ません。でも、あなたがやったのだろうと、何故か直感したんです」

 梅津は口元にしわを刻んだ。その表情が、どうしても笑顔だとは評しえなかった。見る限りは、それに近かったであろうに。

「ふふふ、君はきっと聡いのだろうね」

 梅津は喉を鳴らして笑い、白鳥の肩を叩いた。

「明日、また殺人が露見するぞ」

「え?」

「しかし、それは私がやったものではない。恐らく、君なら分かるだろうがね」

 その言葉を残し、梅津はその場から立ち去った。とてもじゃないが、白鳥には、その背中を追うような真似は出来なかった。

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