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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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梅津神之助という男②

 翌日、出勤した白鳥は感傷的な気分になっていた。やっぱり安川のことが気になったのだ。

 朝の日差しに一押しされつつ、番所の引き戸を開ける。夜番の同心達が眠たげな様子で土間に集まっていた。

「何かあったんですか?」

 自分の悩みは脇に置き、深刻そうな顔をした同心達に声をかける。そのうちの一人が白鳥の袖を引いて、そっと耳元で囁いた。

「……殺しだよ。明野屋で」

 その店の名に白鳥ははっと顔を歪めた。昨晩の、あの笑みを張りつけた男の顔が思い浮かんだのだ。

「な、何人亡くなったんです?」

「今のところ一人だよ。これから俺達は聞き込みだ」

 そう言って、夜番の同心達は欠伸交じりに朝方の市中へと繰り出していった。

 一方、番所に残された白鳥は、落ち着かない様子で土間を行ったり来たりする。昨日の男、難を逃れたのだろうか? 事件に関わっていなければいいが……。

 忙しなく歩きまわっているうちに、普段よりも少しだけ遅れてやってきた平野が息を乱しながら飛びこんでくる。どうやら道中で夜番の連中に話を聞かされたみたいだった。

「河津はどこだ?」

 次の瞬間、白鳥の意思とは関係なく、彼の体は反射的に動き出していた。事件が起こった際、相方が遅れるなら迎えに行かなければならない、と嫌というほどすりこまれているからだ。

 そうして眠たげな河津を道中で捕まえて、明野屋へと向かう。どうやら凶行は店の奥で起きたようで、店頭はいつも通りの様相を保っていた。

 店の奥に足を踏み入れてすぐ、白鳥と河津は顔をしかめた。

 板張りの縁側に溢れんばかりの血溜が広がり、死体から吹きだしたのであろう血液は天井にまで到達している。凄惨な現場を目撃した被害者の奥さんが、大声を上げて泣き叫んでいた。

「被害者は?」

 現場近くの一室には、すでに医師が到着していた。彼は裸にひんむいた死体を検視している最中で、見習いの男に状況を報告するよう促した。

「は、はい。被害者は明野屋の店主、英助です。鋭利な刃物で斬られています」

「刀ですか?」

 白鳥に返答をしたのは、傷口を舐めるように見ていた医師だった。

「こっちに来い。……こいつは犯人と相対した状態で、左の胴から右の肩にかけて斬りあげられている」

 医師は恬淡な面持ちで傷口を指先でなぞった。恐ろしいほど深くまで達している。それこそ骨を砕く勢いだ。遺体が切断されないのは、辛うじて背中の皮を一枚残しているからだそうだ。

「犯人は剣術の達人だ。何年もこの仕事を続けているが、こんな傷を見たのは五年ぶりだ」

 と、そこで平野が入ってきた。彼女は死体の様子を一瞥し、それから医師に話を続けるよう促した。どことなく顔色が優れないように見える……。

「梅津神之助の太刀筋に良く似ている」

「え?」

 この医師の思わぬ言葉に声を発したのは白鳥だった。全ての視線が彼に向く。その様子に白鳥は慌てふためき、顔を紅潮させた。

「い、いえ、何でもありません」

「言え」

 平野の恐ろしい眼光に射抜かれ、白鳥は俯いた。

「……昨日の晩、明野屋の場所を聞いてきた男性が、梅津って名前だったなって」

 その直後、強烈な力で襟首を掴まれた白鳥は、無様な悲鳴を上げて壁際に叩きつけられた。その眼前に鬼の形相の平野が立ちふさがった。

「どういうことだ?」

「ええ? し、知らない人にいきなり声を掛けられただけですよ」

「その男は梅津神之助じゃなかったか?」

「わ、分かりません。だって、彼の顔を知りませんし……」

「奴のことは調べさせただろう!」

 有無を言わせぬ怒号が飛び、河津が慌てて平野を羽交い絞めにした。

 それほど、この女上司は怒り狂っていた。拳を振り上げ、顔を赤黒く染めている。その鼻息は荒く、珍しく平静を保てていなかった。

 白鳥は頭を抱えながら、何度も首を振った。

「本当です。顔なんか知りません」

「そんなはずがないだろう! 調書の中に人相書があったはずだ」

「……いえ、ありませんでした」

 平野は怒りのあまり呪詛をまき散らしていた。それを河津が力一杯引きずり、落ち着かせている。

 白鳥はといえば、医師の見習いに優しく肩を撫でられながら、何度も首を振った。

「一から十まであの資料は見ましたよ! でも、どこにもなかった……」

「まあ、まあ、落ち着いてください。誰もあなたを疑っていませんよ」

 そう言って見習いは背中をさすり、慰めてくれる。その間も平野は低く唸り、河津は険しい顔をしている。

 そんな同心達の仲間割れをよそに、医師は呑気に検視を続けていた。

「……おや、胃の中に夕食が残っているな。ほほう、大店ともなると良い物を食っているんだなあ……ああ、腹減った」

 白鳥の弁が正しいと証明されたのは昼もやや過ぎた頃のことであった。

 いつもならば飯でも食いに行こうかとなるのに、今日ばかりは食欲も湧かず、そして動く気にもならず、番所に戻った白鳥は特等席で突っ伏していた。

 平野は幾分か落ち着きを取り戻したが、控室に入ったきり出てこない。河津はそんな二人を見て落ち着かない様子だ。

 そんな鬱々とした空気を全く読まずに一人の男が番所にやってきた。中央部の同心だ。彼の顔を見た途端、河津が顔を華やがせた。いつもの三倍は明るく応対している。

「言われたとおりに調べましたよ、河津さん」

 と気安く返したところを見ると、河津とは旧知の仲であるらしい。

「で、どうだった?」

「誰が持って行ったんでしょうなあ」

 同心は持ってきた包みを開け、神の国事件の調書を取り出す。まさしく、いつぞやの爆発事件の際に見た物だ。表紙の汚れも、梅と刀の柄が書かれた紙きれも、もちろんある。

「貸せ」

 途端に控室から飛び出してきた平野が調書を奪い、むさぼるように読む。その様子に全く動じず、同心はそっけない様子で言った。

「人相書、なくなっていました」

「いつからだ?」

「わかりゃ苦労しません。一応、他の部署に残っていたんで持ってきました」

 そう言って、中央部の同心は手招きした。呼ばれた白鳥は厳格な表情で調書を睨んでいる上司に憚りつつ、そっと隣に膝をついた。

「梅津ってのはこの男だ」

 四つ折りにされた人相書に描かれていた男の顔を見て、白鳥は、あっと声を上げてしまった。

 あの不気味なほど笑みの似合う男の顔が描かれている。河津がおずおずと尋ねた。

「こいつか?」

「はい。この男でした」

 平野と中央部の同心は揃って顔を見合わせた。五年前、爆死で片付けた人間が生きており、市中に潜伏している……。いや、またしても事件を起こした。

 河津が目をぐるりと回した。

「どういうことだ……?」

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