梅津神之助という男①
薄雲が月明かりを遮り、夜が一段と深みを増す。
「河津さんと飲むと、どうしてもやるせない気持ちになるんだよなあ……」
呟く白鳥は千鳥足で帰途についていた。酔いの為に赤ら顔で、足取りも軽い。つい先ほどまで河津と酒場におり、腹立ちもあって飲み過ぎたのだ。
辺りはひっそりと静まり返っている。そりゃそうだ。宵闇を過ぎても歩いているのは、よほど腕に自信のある奴か、強盗くらいなものである。
白鳥はどちらかと言えば、逃げ足があると思い込んでいる酔っぱらいだ。
手には酒場の店主から借り受けた提灯があり、そこから発せられるほのかな光だけが足元を照らしている。誰も彼もが寝静まり、自宅のある長屋には、夜なべして針子仕事に勤しむ母親の姿さえもない。
「はあ……」
ふとした拍子に闇の淵に目をすがめ、溜息をついてしまう。
今日の仕事は最悪だった。自棄酒をしたいくらいに。河津の哀れな姿を見て安心したいほど。
現場は中津国でも指折りの武家である戸田家で、そこに仕える安川という家臣が横領事件を起こしたのである。
市中の中央部で起こった事件だから本来は無関係なのだが、勝手方時代の同僚に頼みこまれて一日だけ応援に駆け付けたのだ。
それで捜査をしていたのだが、どうにも気味の悪いことになった。誰に話を聞いても言い辛そうに――私が言ったと口外しないでくださいねと念を置き――安川を弁護する。彼ほどの忠臣はいませんよ、と気の毒そうに声をひそめるのだ。
対して主である戸田某は言葉を変え、時にこじつけつつ、安川を悪しざまに罵った。
主従による主張のかい離は、戸田家全体の歪な雰囲気を浮き彫りにした。犯人捜しに息巻き、空回りする戸田某の姿は滑稽な道化のようですらあった。
ともかく戸田某の意見は無下にできず、日中には安川の家を捜索した。
渋面を作りたくなったのはこの先だ。
戸田家は中津国でも高名で家の格は七傑に次ぐ。そこの金蔵から盗みだされた金は、下級武士である安川が人生を十回積み重ねたところで到底足りないような金額だった。
にもかかわらず、安川の生活は貧乏で、長年伏せっていた自分の母親を看取ったかと思うと、今度は妻の父親が倒れてその身を引き受けたのだという。
彼の給金は一般的に見ても平均以下だ。貧困に耐えかねて横領をしたのだろう、と戸田某は口汚く喚いていた。
だが、疑問はいくらでも湧いた。もし貧困から逃れたいだけなら、安川の生活は――内密にしなければならないにせよ――楽なものだったろうし、それだけなら生涯賃金の十倍以上の金を盗む必要もなかったろう。
けれども現実は……。
安川の妻は髪の毛を切って売らねばならず、安川自身も家宝の剣を売り、鎧を売り、そして自分の母親が命の次に大事にしていた着物までもを質に入れて、義父の薬代を捻出していた。
とてもじゃないが、横領犯の暮らしようとは思えない。彼の妻は勤勉で詳細な帳簿も付けており、家族三人の暮らしは安川の給料と財産の切り崩しで成り立っていた。
当然のこと白鳥達は、安川が身代わりであろうと推測したが、それとは裏腹に、捜査の過程で出てきた証拠は全て彼が犯人だと告げていた。
手段、状況、物証とあらゆる物がこの下級武士の逆風になった。しかも安川自身も自供していて、逮捕せざるを得なかったのだ。
金はどこへ消えたのか。日中、白鳥はずっと考えていた。戸田某は、女に使ったのだろうと意見を翻したが、安川の困窮ぶりで女は囲えない。
夫の逮捕に妻は泣き崩れ、義理の父親は這いずりながら白鳥達に縋り、何かの間違いだと何度も繰り返すような有様だった。
しかし、証拠と自供がある以上、安川を捕まえないわけにはいかない。後味の悪い思いなど同心をやっていればしょっちゅうだ。
それでも落胆はする。逮捕された安川は何かを決意した様子で、蒼白の顔を伏せ、同心達の取り調べにも恬淡な様子で頷くばかりだった。
捜査は続けようもなく、横領は全て彼の罪として報告されるだろう。
こうして疲れた日は、河津と共に飲みに行き、空っぽな時間を過ごすに限る。今日の不幸はうたかたとし、酔泥と共に明日を迎えるのが一番健全だ。
「はあ……気が滅入っちゃうんだよなあ」
提灯の明かりと夜の帳が踊るさまを見つめつつ、何度目かの溜息をついた。こんな具合で陶酔の方が泡となって消え、明日に引きずりそうだった。
歩くうちに醒めていき、体も冷え始めた。安川の件はどうするかな、とぼんやり思案してしまう。
「ちょっと、よろしいですか?」
そんな考えごとをしている時に突然、声を掛けられて心臓が跳ねた。提灯を握る手に力がこもり、先ほどよりも激しく光と闇がうごめいた。
振り返ると提灯を片手に気の抜けるような笑みを浮かべた男が立っていた。
緊張で強張った体の力を抜く。大きく一つ息をついた白鳥は、生来の欺瞞に満ちた笑みを浮かべた。
「ええ、構いませんよ」
「すみませんね」
その男も満面の笑みを浮かべたまま、腰を折り曲げた。何とも慇懃な態度だ、と白鳥は思いつつ、男が腰に帯びている剣を見て顔をしかめた。
「ええと、何か?」
一瞬にして警戒感がぶり返した。そう、ここは市中の夜のことだ。腕自慢か強盗くらいしか歩いていない。
けれども笑みを浮かべた男は――意識が切り替わると、その笑みが不気味な福笑いのように見えた――困ったように眉をハの字に曲げた。
「実は、明野屋という店を探しているのです。旅の途中でしてね。ちょっとした知己である彼らに、一晩軒先を借りようかと思いまして」
「はあ」
白鳥は目をぱちくりとさせ、頭の中の引き出しを引っかきまわした。明野屋というのは聞き覚えがあるが、どこでだったか、情報を引き出すのには時間がかかりそうだ。
「ええと、旅? の割には軽装ですね」
時間稼ぎの為、白鳥はそう問うた。男は自分の姿を鑑みて苦笑した。その笑顔は、面上に笑みが張りついているみたいな、不自然さが目につく。
「ええ、まあ。どうも最近、人生の終わりが身近に感じられましてね。最期のあいさつ回りをしているのですよ」
「はあ」
男の笑みは実に穏やかだったが、言っている内容は剣呑だ。別段、弱った様子には見えないが、こういうのは気の持ちようである。本人が駄目だと言っている以上、恐らくは駄目なんだろう。
その男の柔らかな笑みに白鳥は引き寄せられた。不気味さはあるが、笑みを誘う愛嬌もある。
そっと近付くと、彼は提灯を上げて自分の顔が見えるようにしてくれた。
「ええと、何とお呼びすれば」
「梅津です」
「ああ、梅津さん。人生山あり谷ありですからね。そういう気分もあるんでしょうが、せめても自殺だけは止めてくださいね」
「ええ、肝に銘じておきましょう」
彼は笑みを崩すことなく言った。死に直面して、こういう顔が出来る心境に、白鳥は心当たりがなかった。よっぽど充実した人生を送ってきたのであろう。
「それで、明野屋ですけどね。豆河通りに戻っていただいて、西の方に道を一本外れたどこかにあるはずですよ」
「そうですか、どうもありがとうございます」
男は笑みを保ったまま、やっぱり慇懃に頭を下げた。具体的な場所が思い出せなかったのが、白鳥にとっては悔やまれるところだ。
結局、笑顔が似合う彼の背中が見えなくなるまで、ぼんやりと立ち尽くした。