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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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平野静と長い夜③

「平野さん、今日飲みに行きません?」

 翌日、白鳥は疲れ切った顔で平野に問うた。彼女はちょうど番所に出勤してきたところだった。

「……珍しいな」

「ええ……ちょっとありまして……」

「河津の差し金か? しかし――」

 彼の目の下には酷いクマが出来ていて、とてもじゃないが夜に飲酒出来るような状態でないように見える。

「――早く帰って寝たらどうだ?」

 さっさと控室へと行こうとする彼女の腰に、白鳥がしがみついた。

「ひっ!」

「お、お願いですぅ! 行かないでぇ!」

 もはやなりふり構ってなどいられなかった。

 実はあのあと、神平家の若い武士達が付きまとっては呪詛のように、神平を助けろ、と呟いていたのだ。

 それこそ一晩中である。気を抜いた時など、つっかえ棒をした扉を勝手に開けて枕元で言葉を繰り返していたほどだ。

 夜中、月明かりに照らされた部屋で、厳つい男達に囲まれる光景はまさしく恐怖だった。

 その為に一睡も出来ず、布団をかぶって念仏を唱えたわけだ。

「お、おい!」

 平野は珍しく取り乱した部下に驚きつつ、一発強烈な鉄拳を見舞った。白鳥はその衝撃で離れ、床に突っ伏したまま――これまた普段では考えられない――平野の足に絡みついた。

「もう無理ですよぉ……今日、今日一晩でいいんです。飲みに行きましょうよぉ……」

 今晩もあの若い武士達に付きまとわれたら、本当に体に支障をきたしそうだった。

 まず見ない部下の憔悴ぶりに、平野は眉をたわめた。その困惑を見透かした白鳥は、追い打ちとばかりに腕に力を込め、ますます強くしがみついた。

「……誰かに脅されているのか?」

 それはある面では正しい。だが、ある面では違う。脅すという言葉は適さないかもしれない。

「うう……何も言わずに、今晩飲みに付き合って下さいよぉ……」

 平野は深々と溜息をついた。見上げると、彼女は苦々しげな表情で見下ろしていた。

「どうしても今日でないと駄目なのか?」

「はい。今日。今晩です」

「……分かった」

「本当ですか?」

「私がお前に嘘をついたことがあったか?」

 いや、ない。白鳥はぱっと顔を華やがせると勢いよく立ちあがり、あまりの嬉しさに平野に抱きついた。これで神平家の呪縛から逃れられる。もう今晩は熟睡できるわけだ。

「お、おい!」

 普段の白鳥からは全く考えられない行動の数々だ。彼女は再び拳を握りしめ、しがみつく痴れ者の脳天に鉄拳を振り下ろした。

 むやみやたらとはしゃいでいた白鳥は、まるで糸が切れた人形のみたいに、活き締められたヒラメのように、木から落ちたヤシの実の如く、ぐったりと動かなくなった。

 どうやら昨晩は眠れなかったみたいだ、と平野は即座に察し、鼻息も荒いまま乱れた着物を整えた。夜番の連中が出払っていて幸いだった。こんな甘い処罰で済ませる平野の姿を見たら、幾分か威厳も落ちようというものだ。

 それにしても何故、白鳥は眠れなかったのだろう。まさか自分と飲みに行くのが楽しみだったとは思えないが……。

 平野はそっと白鳥の傍らに膝をついた。床の上は案外冷えてしまうから、彼の特等席まで引きずってやる。

「……流されやすいところ以外は、至って普通の男だと思っていたがな」

 平野は疲れ切った白鳥の頬を冷たい指先で撫で、控室に向かった。

 自分の心臓が思った以上に早鐘を打っていることには、全く気が付いていなかった。それが普通だと思っていたのだ。

 そして僅かな時が流れて夜になり、番所にも淡い火が灯された。

 仕事はほとんどない。白鳥はさっさと日誌を書き終えて、夜番の同心に預けた。

「何だかご機嫌じゃねえか」

「ま、色々あるんですよ」

 白鳥は口元を緩めて呟いた。

 その彼のもとに、同じく仕事を終えた河津がやってくる。右手の親指、人差し指、中指で小さな茶碗を持つような仕草をする。一杯行こうというのだ。

 そうしたいのは山々だが、今日に限って河津を連れていくわけにもいかない。

「いや、今日は遠慮します」

「ええ? 最近、付き合い悪いな」

「すみませんねえ。明日以降なら都合がいいんですけどねえ」

 白鳥は半笑いでそう返した。控室の引き戸が開く音がする。その場にいた全ての人間が背筋を正し、女上司がやってくるのを待った。

「……む、じゃあ、行くか」

 彼女は何の気もなしに言い、その途端に河津が首を捻った。

「え? どこにです?」

「ああ、白鳥に一杯行こうと誘われてな」

 彼女は、長年の部下が愕然としていることにも気付かず、草履を履き、白鳥を見た。

 その表情が僅かに緩んでいることに気付いたのは、河津だけだろう。長年仕えてきた彼だからこそ、その機微を察知できた。とはいえ、それ以上のことは理解出来ないのだが。

「……え? 俺、今断られたとこですけど」

「そうなのか、白鳥?」

「え、ええ。今日は平野さんに用があるんです」

 河津は、今まで両親だと思っていた人達が他人だったと気付いた時のような、青天の霹靂と称して差し支えない唖然とした表情を作った。

「ま……ま、ままままじか。いつ誘っても来ないお嬢が、白鳥の誘いにはホイホイ乗るのか……」

 朝方のことを思い出しているのか、平野は頬を少しばかり赤らめ、咳払いをした。

「ま、まあ。熱心に誘われたからな」

「ええ! 俺だって毎日熱心に誘っているじゃないですか!」

「お前の場合はしつこすぎる」

 平野はぴしゃりと言って、白鳥の手を引いた。

 その親密な様子に河津は白目をむいて倒れた。もしかしたら明日は使い物にならないかもしれない、と白鳥は思いつつ、上機嫌な平野の様子に恐怖を覚えた。

 これから血を見るのは確実なのだから。

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