平野静と長い夜①
「話があるようなんです」
と神妙な様子で神平家の武士が口を開いた時、白鳥を始めとした第二八番隊の面々は思わず顔を見合わせてしまった。
「……深刻な話か?」
そう尋ねたのは平野静だ。神平家と言えば彼女の生家であるから、必然的に、彼女が応対することになる。周囲では他の同心が聞き耳を立てていた。
先ほど、この神平家の若い武士が汗をびっしょりと掻きながら番所に飛び込んできたのだった。当然のこと平野に関わることだろうと思われたから、白鳥は慌てふためいて彼女を呼びに行ったのである。
けれども――。
「あ、いえ、そういうわけではありません」
とこの若い武士はあっさりと首を振ってしまった。
「ええと、お嬢さんは別に関係ないと言いますか……当主関連ですので、ご遠慮いただきたいと言いますか……」
「……あの人は何の用だったんだ?」
不機嫌そうに平野が問う。すると若い武士は、きっぱりと返答を拒絶し、白鳥の方を向いた。
「用があるのはあなただけだよ」
「ええ? だって、神平さんが……」
「そうだね。あの方があなたを呼んで来いって」
どうやら早とちりだったらしい。白鳥は赤面しつつ、取り繕うように後頭部を叩いた。
平野はその様子を冷然と見つめていたものの、やがて呆れたように首を振り、白鳥の後頭部を叩いて控室に戻っていった。取り乱していた河津も、口をへの字に曲げて同じように新入りの後頭部を叩き、その場を離れた。
土間の隅には二人だけが残された。白鳥は不機嫌そうに、叩かれた後頭部を撫でている。
「……で、話って何です?」
「ああ、町奉行の許可を取っているから、このまま早退してついてきてほしい」
個人的にお話がしたいらしい。町奉行と言えば直属の一番偉い上司だ。そんな人が末端の、なんてことない同心と何の話をするというのだろうか。
「来たら話すとさ」
若い武士は苦笑交じりに呟き、番所から出ていった。
さっと河津の方を見た。まあ、お偉いさんが早退しろと言うなら早退せざるを得ないわけだ。彼は髭を撫でながら顎をしゃくり、さっさと行けと無言で命じた。
それで白鳥も外に出た。昼時を過ぎた頃で、一日の中では最も暑くなる時間帯だ。
豆河通りでは今日も人の頭が荒れた海のように波打ち、うごめいている。そのざわめきと混雑ぶりを見ているだけで、何故だか汗がどっと噴き出してきた。
「じゃあ、行くか」
若い武士は何の躊躇いもなくその雑踏の中に飛び込んだ。もちろん白鳥も拒絶できるわけがなく……。
「あの、それで神平……様は一体何の用なんです?」
押しあいへしあいをしながら、白鳥は若い武士に声を掛けた。彼は背筋を伸ばし、凛然とした所作で前を歩いている。
「さあ? 重要な案件だと言っていたけど」
若い武士は困惑した面持ちで眉根を寄せた。周囲では商人達がかかずりあい、ざわめいた雰囲気だ。自然と二人の声も大きくなる。
「でも、僕だけを呼んだんですよね?」
「あなたが必要だと言っていたよ」
「……ろくでもないことだろうなあ」
「まさか。あの方のお話することは、全てが重要だよ」
若い武士は、神平を思い起こさせるような悪戯っぽい笑みを面上に張り付けている。何だか本当に嫌な予感がする。怖気が背筋を通りぬけ、肌が粟立った。
「……そりゃ、あなたはそう言うでしょうがね」
「それに、最近思い詰めた様子だったんだ。もしかしたら、何か重大なことを考えていたのかもしれない」
絶対に大したことないだろう、と白鳥は内心で吐き捨てた。
けれども相手は町奉行だ。もしかしたら本当に真剣に悩んでいるのかもしれず、悶々としながら足を動かした。
やがて武家屋敷が建ち並ぶ一帯まで抜け、神平家の屋敷が見えるところまでやってくると、また別の若い武士が近付いてきた。
「正面から回って下さい」
「……正面から?」
そう問うと、若い武士達は快く頷いた。
「もちろん。正式な客人ですから」
白鳥は目をぐるりと回した。
二人の武士に誘われて正面に回ると、金色で彩られた荘厳華美な正門が出迎えてくれる。そこから真っ直ぐ石畳の道が続き、巨大な母屋がその全貌を露わにする。神平家の財の大きさは、そうした部分に顕著に表れていた。
この屋敷地は鍛錬場や馬屋、他にも仕える若い武士達の住居など、様々な施設を内包している。もちろん使用人も多く、活気にあふれ、それがますます白鳥の憂鬱を助長する。
「ちょっとはあのおっさんにもやらせたらどうです?」
想像を絶するほど圧倒的な格差を見せつけられると、無性に腹立たしい。生まれた頃から一度も苦労なんてしたことがないんじゃないかと穿ちたくもなる。
若い武士達はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「いやいや、あの人が風呂掃除をするよりも、町奉行として働いた方がよっぽど世の為になるじゃないか」
「……そんなもんですかねえ」
頭では分かっていても、心が肯定したくない。平野の初恋騒動の時もそうだし、結構白鳥を貶めようと行動してくるあたりに悪戯心が感じ取れるようだ。
それが純然な、悪意などない感情が源泉となっているからこそ、怒りのぶつけどころがなくて苛つくのだ。
玄関口に案内される。柱に使われている巨木を値踏みして、暗欝とした感情が増幅される。この母屋に費やされた資金で白鳥屋がいくつ買えるだろう、なんて言うのは不毛な考えに他ならないからだ。
「さ、どうぞ」
そのまま若い武士二人組によって、母屋の一番奥まで案内される。
そこが神平の私的な空間らしいと分かるのは、その道中、少年といっても差し支えない若者とすれ違った時、若い武士達が慌てて頭を下げたからだ。白鳥もそれに従い、こうべを垂れた。
「今のは?」
冷淡な顔をした若者が廊下の角に消える。それを確認して白鳥が尋ねると、若い武士達は眉を吊り上げ、耳を貸すようにと指を動かした。
「清之助さんだよ。次期当主の」
町奉行の神平――平野の父親――は当主の代理を務めている。本来の当主は、あの冷淡な顔をした清之介という少年なのだ。
若い武士はますます白鳥に身を寄せ、声を低めた。
「静お嬢さんの甥っ子だよ」
「……つまり、平野さんみたいな兄弟が他にもいて、それが子供を産んだか産ませたかしたってことですか?」
それは何とも恐ろしい話だ。地獄の大魔王が三人いると告げられて、絶望感を覚えない人間がいかほどいるというのか。
「いや、お坊っちゃんは優しい性格だったよ。本当に。だから早くして亡くなったんだろうけど」
聞けば、平野とは随分と歳の離れた兄弟だったらしい。彼女はそれこそ父親のように慕っていたのだそうだ。
けれども随分と前――平野が神平家を出奔する直前――に病に倒れて帰らぬ人となった。
「そろそろ、いい歳だからな。神平家も代替わりするんだろうさ」
若い武士達は、それが気に食わないようだった。彼らは清之助少年が消えた廊下の角を睨み、舌打ちをした。
やがて神平の私室の前にやってくると三人は膝をついた。若い武士が声を上げた。
「連れてまいりました」
「入れ」
神平の遠雷のような声が響く。若い武士達が頷き、白鳥を部屋の中に放り込んだ。