偶像信仰⑥
その夜は薬種問屋で過ごした。人が死んだ場所というのは薄気味悪いが、捜査の為には仕方がない。白鳥は夜を徹して金渡屋を漁った。何か出てこないかと思ったのだ。
怪しげなものはなかった。帳簿を見ても、利吉が誠実な商人だったということくらいしか分からない。
けれども気になることはあった。
「平野さん、ちょっと」
白鳥は帳簿片手に、ウトウトしかけていた上司を呼んだ。ちなみに河津は大口を開けて寝入っていた。
彼女ははっと顔を上げ、赤面しながら白鳥に近づいてきた。そこまで気を張らなくとも良いのに、と思うが、あえて口には出さない。誰だって殴られるのは嫌だ。寝起きの彼女に関する感想を言うよりは、自分の仕事に没頭した方が無難である。
「帳簿を調べていて思ったんですが、伝七の名前がありません」
「……どういうことだ?」
僅かに苛立ちが滲んでいる。白鳥はそんな彼女に一歩分だけにじり寄って、帳簿を見せた。微かに甘酸っぱい汗の香りがして、柄にもなく心臓が高鳴った。
火照った頬を冷ますように、白鳥は咳払いをした。
「利吉はきちんと帳簿を付けていました。いつ、誰に、何を、どのくらい売っていたかちゃんと記しているんです。でも、どこを見ても伝七に物を売った形跡がない」
平野は身を縮こめて腕をさすっていた。明け方が近く、一日のうち、最も冷え込む時間帯だ。白鳥でさえ凍えてしまう。見れば平野は上着を一枚しか着こんでおらず――それは白鳥も同じだが――あまりにも寒そうだ。
白鳥は上着を脱いで、さっと平野の肩にかけてやった。彼女は眉間にしわを寄せたものの、白鳥は気取る様子もなく、そっけなく言った。
「他も探したんですが見当たりません。どうしましょう?」
「……こちらで考えておく。ただ、江という女にも聞くぞ」
白鳥は頷き、朝を待った。
日が出て早々、江の家へと向かった。彼女は粗末な長屋に住んでいた。そこには舟を持たない漁民が住んでおり、彼女も地引網を引く仕事をしているのだという。
朝方突然やってきた同心達にも、江はあまり動じていなかった。それよりも利吉が死んだという事実の方が、彼女を困惑させたようだった。
「入って」
彼女はそっけなく言い、部屋の片隅に置かれていた木箱を引きずりながら戻ってきた。彼女は何の気もなくそれを開けると、立ちつくす白鳥達を見上げた。
「あの人、物凄く悩んでいたわ」
箱の中から帳簿のようなものを取り出した。白鳥はそれを半ばひったくるようにして奪うと、むさぼるように読みこんだ。彼のそんな失態を横目に、河津が咳払いをした。
「何をだ?」
「伝七と付き合っていたこと。彼、酷い男だったって。花火じゃなくて、爆弾を作っていたって言っていたわ」
その言葉に、平野も河津も目をひんむいた。ただ一人白鳥だけは、利吉が几帳面に記した裏帳簿に熱中していた。
江は顔に掛かった髪の毛を耳に掛け、ふっと息を吐いた。
「左平次って人に誘われて……梅津神之助って男に憧れているんだって言っていたわ」
「伝七がか?」
「ええ、何でもその人は爆弾作りの名手だったんだって。利吉は、ずっと花火作りの材料を仕入れているんだと思っていたみたい。でも、実際は違った。伝七はいつか、どこかを爆破する気だったみたいで、知らずのうちにその手伝いをしていたんだって」
それで言葉を失った河津に代わって、今度は平野が声を掛けた。その冷厳な声色に、江は僅かに動揺したようであった。
「その計画を立てたのは伝七だけか?」
「……さあ? でも左平次も伝七も悪いことを考えていたみたい。利吉にはそれが許せなかったんでしょう」
江は、そこで儚げに笑みをこぼし、恐ろしげな顔をした平野を真っ直ぐ捉えた。
「利吉はそれを止めに行ったんだ。あの日、刀を貸してくれって言われたから」
「刀を?」
「うちのお父さん、もう亡くなったんだけどね。武士の成れ果てだった。お爺ちゃんの代に家が没落したんだけど、ずっと刀だけは残していたの。利吉もそれを知っていた」
「それで利吉が殺したと?」
平野の声はあくまで冷淡だ。江はますます悲しげに、たぶんそうなんだと思う、と呟いた。
その言に、平野も河津も押し黙った。それではおかしい。現場の状況から見て、左平次が下手人である可能性が高い。利吉の方は往来のど真ん中で惨殺されていたのだから。
しかし、それに反論できる証拠はなかった。何せ現場を見た人間はいないし、この殺人に関わった人間が全員死んでいるのだから。もう一人下手人がいれば別だが、今のところ見当たらない。
帳簿に目を落としていた白鳥も、そのうっ屈した推論に同意せざるを得なかった。
伝七は単独犯だったに違いない。利吉から買い受けていた火薬の原料はさほど多くなかった。白鳥がざっと試算した限りでも数個分が出来るか否かという程度だ。
それに、利吉が帳簿を分けていたのは伝七の分だけであった。
「まあ、無理はない話ですよね」
白鳥はそう呟いた。それは自分に言い聞かせている部分もある。
当事者達が死んだのだから、これ以上追及することは出来ないという無念だ。それはもちろん平野も河津も持っていて、彼女達も渋々と言った感じで納得した。
その三人の同心達に、江が不安げな視線を向けた。
「あの、利吉の遺体はどうなるんです?」
「医師の検視が終わって、死因に疑いがなければ寺に埋葬されます」
「そうですか……」
彼女はほっと胸をなでおろしているようだった。白鳥はそのほっそりとした肩を叩いた。
「この辺りの寺に埋葬しますよ」
江はそこで初めて涙を浮かべ、静かに頷いた。
その後、番所に帰宅したあとのことであるが、左平次の家にも同じように神の国の旗が掲げられていたことが判明した。
だが、彼は実に周到な人間で、詐欺の余罪は出てきたものの、梅津との関連は全く出てこず、そのまま捜査は打ち切られた。
何とももやもやした、嫌な空気を抱いたまま、三人は日常に戻った。