偶像信仰④
「ええ、伝七のことで」
と白鳥が愛想笑いを浮かべながら言った時、目の前にいた男は不快そうに顔を歪めた。
伝七の作業場の近くに店を構えている店主だった。彼ならば伝七の作業場に出入りする人間を見ているだろうと思ったのだ。
「話すことなんか、ありませんよ」
その店主は少々苛立っているようだった。彼の店先にも大きな被害が出ている。伝七の作業場から飛んできた破片が店頭の商品を粉々に砕いたのだ。白鳥もしゃがみこんで壊れた商品を回収し始めた。
「まあ、そう言わずに。伝七さんの元に、どんなお客さんが通っていたのかが知りたいんです」
「どんなって……あの人とはそんな関係じゃありませんから。分かりません」
「一つも? たまには客が入るところを見たりしたでしょう?」
と白鳥が問いかけたものの、店主はかぶりを振った。
「あそこ、何で飯が食えていたのか……誰にも分かりませんよ。めったに客なんていませんでしたから」
「お得意さんも? 一人もいなかった?」
「うーん、まあ、あまり仲も良くなかったですからね」
話を聞く限りでは儲かっていなかったみたいだ。
他に手掛かりはあるだろうか、と市中の喧騒から少し離れた一帯を見渡した。農地が広がるばかりで、ほとんどひと気はなかった。
花火職人である伝七は五年ほど前、急にあの場所に作業場を開いたようで、数少ない近隣の住民はかなり反対したらしい。
「あ、でも」
と店主が宙空を見ながら、ぱっと思いついたことを口走った。
「利吉という男が良く来ていたような……」
「それは?」
「確か、市中の西部で薬種問屋をしているとか、何とか。私も詳しくは知りませんけど、その男の地元で花火を打ち上げるから、と足しげく通っていましたよ」
「ふうん。他はどうです?」
「……あとは、左平次とかいう男も、かな?」
「左平次?」
「名前しか聞いたことがありません。でも、たまに仕事をくれるって……これも西部に住んでいたって聞いたことがあります」
白鳥はその店主にねんごろな礼を言い、平野の下に戻ってきた。現場の真ん前で仁王立ちしていた彼女は、恐ろしいほどの激情を帯びた目を彼に向けた。
「ええと、何か?」
報告もせぬまま問うと、隣で口をへの字に曲げていた河津が呟いた。
「いや、あの同心達に随分と言ったんだが、伝七の不注意による事故で処理するって」
「は? どうしてです?」
白鳥も眉間にしわを寄せてしまう。こういう時、河津は色んなところから圧力を掛けられて窮屈そうだ。唯一の逃げ場になるかもしれないと思っていた新入りにも鋭い目で睨まれてしまったわけで、自慢の髭を引っ張りながら肩をすくませた。
「いや、俺に言われても……」
「で、彼らはどこへ?」
「もう帰った。伝七の死体は処理するってさ」
白鳥は目をぐるりと回した。何と愚かしい真似を、と叫んでしまいたかった。
しかし、今そんなことを言ったって仕方がないわけで、彼らがあくまで事故として処理をするなら、白鳥達だってこれが事件であることを証明すればいいだけだ。
「それで……平野さん。この辺りの人は、あんまり伝七に良い感情を持っていなかったみたいです。彼はあまり仕事もなかったみたいで……。少なくとも今のところ分かっている客は一人です」
三人も帰途につく。その道中で薬種問屋の利吉の話をすると、平野は小さく頷き、市中西部の町人を統括している役所へと向かった。
利吉のことはすぐに分かった。市中にあるあらゆる問屋は役所から店を開く為の許可を得なければならないからだ。もちろん代替わりをしたり、廃業したりする時もその旨を知らせる必要がある。
ありがたいことに、利吉という名の薬種問屋は市中西部の一人しかいなかった。
役所に登録されていた住所は、豆河通りから随分と離れた、市中西部でも西の外れの方にある田舎っぽい場所だ。
その一帯まで足を運ぶと、どちらかと言えば漁村の風景が目に飛び込んでくる。浜辺には魚や網の干し場所があり、舟が水につからないように打ち上げられていて、女達が歌を歌いながら魚を処理していた。
「随分とのどかですね……」
なんてことを思わず呟いてしまうほどだ。三人は僅かに朱を混じらせた日差しを浴びながら、目的地の前に立った。金渡屋という看板が立て掛けられた店の入口は大きな板で閉じきられている。
三人は首をかしげ、店の周囲を探る。けれどもどこもかしこも完全に施錠されていて、人がいるような雰囲気ではない。
怪訝な表情を浮かべたまま、三人は顔を合わせた。話を聞こうにも、日が暮れるにつれてひと気がなくなり、金渡屋の周辺はひっそりと静まり返っている。
「どうしますかね」
白鳥が呟く。平野と河津は眉間にしわを寄せたままだ。
その時、不意に遠くの方から声が掛けられた。辺りは段々と夜霧に包まれ、声を掛けた人間の顔までは見えない。けれども、そこに誰かがいるのは明白で、目を凝らすと壮年の男であることが分かった。
「おおい!」
男が手を振りながら近づいてくる。三人の前までやってきた時、彼は肩で息をして、相当辛そうだった。
「あ、あんた達、さっきっからここにいるけど――」
息も絶え絶えにそんなことを言う男の鼻先に、三つの印籠が突きつけられる。そこに描かれているのは神平家の紋だ。もちろんそれだけで怪しげな三人組の素性は知れる。
「同心か……。ここに何の用だ?」
それでも男は疑わしげだった。三人を代表して白鳥が前に出て、市中の中央部で起こった爆発事件の捜査をしていることを告げた。
男は熱心に何度も頷き、金渡屋の建物をちらと見やった。
「で、利吉に話があるわけだ」
「ええ。彼はどちらへ?」
男は肩をすくめた。
「中にいるんじゃねえか?」
田舎というのは実に良い場所だ、と白鳥は内心で称賛した。その壮年の男は、何の気兼ねもなく金渡屋に近づき、入口を閉ざしていた板塀を取っ払ってしまった。
その途端、四人して顔を見合わせ、鼻の頭にしわを寄せた。
店の中から、むっと煙たい臭いが漂ってきたのだ。火がくすぶっているような、何とも言えない焦げ臭さだ。
壮年の男が慌てた様子でどこかに駆けだした。白鳥達は血相を抱えて店の中に入る。そこは薬種問屋らしく、焦げ臭さの中にも薬草の臭いがこびりついている。平野は何の躊躇いもなく店の奥へと入っていった。
「白鳥、来い!」
その声に誘われて、白鳥と河津も店の奥へと向かう。二人は、その現場を見た途端に目をぐるりと回した。
「はあ……」
と溜息をつく河津を横目に、白鳥は血溜の中でぐったりと倒れている男に目をやった。
その男は首筋を切れ味の悪い刀で――まるで鋸のように――何度も斬りつけ、自害しているようだった。というのも、刃の半ばを握りしめていたからだ。手のひらも真っ赤に染まっている。
彼らからやや遅れて、あの壮年の男も店の中に入ってきた。どうやら火事の可能性があると思ったらしい。彼もまた店の奥にやってきて、現場を見た途端に腹の中に収まっていた物を全て吐いた。
「あ、あ……死んでいるじゃあねえか」
「利吉ですか?」
「し、知らねえ。知っている奴じゃねえ」
男は激しく肩を上下させながら言った。
その男を諭し、河津が店の外へと連れて行ってやる。白鳥と平野は、その亡骸の近くにあった、〝遺書〟と書かれた紙きれを取り上げた。そこには左平次、という名が書かれていた。
(左平次……今日は同じ名前に当たるもんだ)
白鳥は内心で独語した。それと同時に、口先では思ってもないことを口走った。
「知らない奴が部屋で死んでいるって……どう思います?」
「お前はどう思う?」
「利吉がどこに行ったのかが知りたいですね」
平野は肩をすくめた。
すぐ近くに町奉行の番所があるようだった。そこに住んでいるらしい哀れな同心は、平野の眼光に気圧されて夜の市中を走る羽目になった。
もちろん哀れな第一発見者である壮年の男と共に。一応、朝方見つかった死体も見てもらおうと思ったのである。
そしてもう一つ、最初の事件現場の近くに住んでいる一家も呼ぶことにした。偶然は重なるものだから、もしかしたらと思ったのだ。
「さて、この男は誰でしょうね……」
白鳥は腕組みをした。平野はすでに家捜しを始めており、焦げ臭さの原因も突き止めていた。これは部屋の片隅に置かれた火鉢のせいだった。おびただしい量の炭が焚かれていて、灰色の煙を放っていたのだ。