偶像信仰②
「お前はこれを読んでおけ」
市中の中央部にある奉行所に着くなり、白鳥は資料室に引きずり込まれた。
そこには市中の西部で起こった事件の捜査資料が保管されている。白鳥に渡されたのは、神の国事件、と名付けられた事件の資料だった。
「これは?」
「読め。話はそれからだ」
そう言い残して平野と河津は部屋を出ていった。一人埃っぽい部屋に残された白鳥は、自然と舌打ちをした。
「ったく、何だっていうんだよ」
そうぼやいたものの、いつもとは違う雰囲気なので素直に資料に目を通すことにした。
この神の国事件というのは、五年前に起こった事件のようだった。市中で発生した爆発事件と、そのさなかに起こった町奉行の暗殺という一連の流れを便宜上そう呼んでいるらしい。
主犯は梅津神之介という名の男だ。
彼の生家である梅津家は悪い家柄ではなく、市中の東部に広大な領地を持つ名士だった。その次期当主である神之介は将来を渇望された武人で、市中では自分の道場を持ち、多くの門下を抱えていたという。
資料によると、梅津神之介は若い頃から憂鬱を患っていたらしい。精神の未熟な彼は、父親の傲岸な態度が許せなかったのだと推察されている。彼の父親は一般的な心根を持ち合わせた名家の当主だったが、梅津にとっては許し難い愚者のように映った。
いつしか父親に反発し、家を出たという。それまで開いていた大規模な道場は畳み、市中西部の日の当たらないボロ屋で、数少ない門弟に熱心に剣術や武士としての精神のあり方を教授していたそうだ。
これが梅津の一生を大きく転換させた。彼の門弟はいつしか信者となり、梅津の手足となって働くようになった。
梅津が批判の的としたのは町奉行所のあり方だった。市中の治安を守るこの一団に、どうしようもなく腹が立ったのだろうとされている。
西部に移って早々、彼は信者達と共に自警団を発足させた。彼が最も嫌ったのは特権であり、同心達が持つ特別な権利をはく奪するべく活動を開始した。
逮捕権などないにもかかわらず、罪人を見つけては私刑に処し、信者の中には殺してしまう者もあったそうだ。当然のこと、町奉行所としては見逃せない。それで最初の弾圧が始まった。
当時の町奉行は七傑のうちの一家、兵衛家の当主であった。彼は梅津とその一派を徹底的に処罰した。五十人以上いた信者が半分になり、梅津はどこかに身をひそめたという。
特権を持つ者の面目として、梅津を逮捕するのは使命である。激しい捜索が行なわれ、これには過激な拷問や冤罪が多く付きまとった。無関係な人間がどれほど逮捕され、死んでいったのか、もはや町奉行所でさえ把握は出来なかったという。
だが、おびただしい数の犠牲により信者がさらに半分逮捕され、梅津の味方は数人ばかりとなった。
そしてそんな折に一つの事件が起きた。市中西部のとある店が爆破されたのだ。
白鳥はそれを覚えていた。確か、人間の糞尿を集めて田舎に売る店だったはずだ。当時は排泄物の中にある成分に引火したんだろうと囁かれていた。少なくとも豆河通りに住む連中の中では、単なる事故として片づけられたと記憶している。
しかしながら資料の中では、事件は梅津によって引き起こされたと断定されている。その店の主は梅津の信者の一人で、火薬を作り、梅津に横流しをしていたのだ。
町奉行所の同心が現場を検証し、店主は爆発の前に殺されていたことを明らかにした。左の胴から右の肩に掛けて、強烈な袈裟斬りを受けていたのである。そのあとに店が爆破され、跡形もなく葬り去られた。
この結果、梅津には相当量の爆弾が渡った。彼はそれを用いて市中を破壊するつもりだったらしい。らしい、というのもその計画は失敗に終わった。
その要因となったのは町奉行への襲撃であった。
公表されなかったが、爆破事件の直後、町奉行たる兵衛家の当主が例年通り避暑の為に別荘へと向かったのである。
これは、ていの良い厄介払いだった。当時の町奉行は仕事を完璧にこなしていたのに、梅津の目を市中から遠ざける為だけに事実上、解任されたのだ。
兵衛家の当主は二人の息子と共に避暑地に入り、久方ぶりの休暇を満喫したという。彼の中に楽観的な考えがなかったとは言えない。何せ、別荘近くの川へ、ごく少数の供回りを連れて釣りに向かったというのだから。
この供回りの中には彼の息子も一人混じっていた。総数は二十人ほどで、例年ならば護衛の数は充分だったろう。だが、こと梅津と矛を交えている時には不足していた。
もちろん市中から逃れていた梅津は、町奉行を狙って別荘近くに潜入していた。数少ない信者と共に。
これが陰謀であったのか、それとも油断であったのかは判然とはしない。けれども梅津は一瞬の虚を突いて兵衛家の当主に肉薄した。
そして、彼と彼の息子を殺し、再び闇の中に消えた。
その後の梅津の足取りは不明だが、市中に戻ったという事実を町奉行所は把握していた。
この頃、町奉行所は一人の信者に目をつけていた。
その男は梅津の思想を信奉していたのではなく、新しい秩序がもたらす利益に熱中していた。そこで町奉行所の同心は、その男を極秘裏に逮捕し、情報源として活用したのだ。
これは功を奏した。その男はいくらかの名誉や地位と引き換えに、梅津の居場所をあっさりと売ったのである。
町奉行暗殺のあと、梅津達が潜んでいた隠れ家の情報までバラし、これが同心達による報復、もとい襲撃騒動へと発展した。
この一件で梅津神之介は死亡したとされている。というのも、梅津の隠れ家があとかたもなくなるほどの激しい爆発に見舞われたからだ。
後々の調査によれば、彼は秘匿していた爆弾に火を付けたのだという。
隠れ家からは少なくとも十人分の死体が見つかった。そのうちの一つは梅津家の家紋が入った剣を持った死体であった。
町奉行所はこれを梅津だと断定した。身につけていた着物や、彼が死んでいた場所、他の死体との兼ね合いから、間違いないとされたのだ。
こうして事件は収束した。
梅津は終始、神の国という言葉を信者達に説いていたという。彼の言う神の国とは、人の間に身分の格差なく、全く平等な世界だった。
全ての物質を全ての人間が共有し、すべからく神の下に公平であること。それが彼の主張する新しい世界だったそうだ。