偶像信仰①
「うわぁ……えげつない」
白鳥は髪の毛を掻きながら、ぼそりと呟いた。
彼の足元には、血溜の中に沈む、斬殺された男の死体があった。とはいえ、それほど優雅な殺し方ではない。出来の悪いなまくら刀で何十と叩きつけたような、そういう惨たらしさがある。
現場は市中の片隅にある小さな路地だ。もう朝日が昇っているというのに、家々に囲まれているせいか影が濃く、うすら寒い。
朝方から家を追い出された家族が恨めしげな顔を同心に向けていた。迷惑だろうが、それほど男の死にざまが異様だったのだから致し方あるまい。
「左平次さん、いる?」
男が、閉じられたままの家の戸を叩いていた。追い出された一家のうちの一人であるらしく、隣人が出てこないという。引きずってでも追い出せという同心達のありがたい指示により、中に入ったものの、男は小首を傾げて戻ってきた。
「何か?」
その様子に近寄った白鳥が尋ねると、男を含めた一家は揃ってかぶりを振った。
「いないみたいです」
「……じゃあ、良いですよ。すぐに離れてください」
一家は素直に頷き、さっさと立ち去った。まあ、聞けば男の一人暮らしみたいだから、朝帰りなんていくらでもあるだろう。それほど気にも留めずに、死体の元へと戻った。
「よっぽどの恨みか、使った武器が悪かったのか……」
死体を見慣れているはずの河津も、相当気分を害しているようだった。
それほど男の死体は普通でない。胸や腹にかけて、はらわたがまろび出るほど執拗に斬りつけられている。
かなりの遺恨でもあったか、さもなければ本当に武器がなまくらか、だろう。見たところ死体の男はやせっぽちで、全く荷物の類を持っていない。
「恐ろしい話ですよ」
白鳥は我が身を抱き、死体を観察した。医師が来るまではこのままだ。彼は朝にあまり強くないから、もうしばらく蝿がたかるまま、寒空の元に置いておかなければならないだろう。
「おや?」
ぼんやりと死体を確認していた白鳥は、その血の海に沈んだ背中に、何やら紙きれのようなものが挟まっているのに気が付いた。
「河津さん」
「何だよ……死体は動かすな」
そうは言ったものの、河津も紙きれが気にならないわけではなかったらしい。同心の一人を呼びつけ、医師を引きずってこいと命じた。
命じられた方は絶望的な顔をしたが、河津に言われては仕方がないと道連れを三人ほど連れて診療所へと向かった。
ものの五分と経たないうちに、医師は半睡半覚の状態で現場に連れて来られ、露悪的な顔で同心達を威嚇した。傍らで息を弾ませていた見習いが、医師の顔を覗きこんで低い悲鳴を上げた。
「この紙きれを取りたいんだ。さっさとしろ。そこまでしたらまた寝ててもいい」
意を決した河津が医師の尻を蹴っ飛ばした。普段ならば決して出来ない行為だが、今の医師はそこいらの犬っころよりも使えないのだから致し方あるまい。
彼は寝ぼけ眼で尻をさすりつつ――けれども相当正確に――検視を始めた。間延びした声だが指示は的確で、あっという間に死体がひっくり返され、紙きれが露わになった。
「……天誅、梅津新之助、ねえ」
その紙きれに書かれていた言葉を読み、白鳥は首をかしげた。
「河津さん、これが犯人の名前でしょうか?」
顔を上げてそう問いかけた時、白鳥は渋面を作った。
その場にいた全ての同心が紙きれを見下ろしたまま固まっていたからだ。一体何があったのだろうと首を傾げたものの、沈黙が張り巡らされた。それを破ったのは欠伸交じりの医師だ。
「おい、手伝いを何人かよこせ。こいつの死体を調べるぞ」
見習いは診療所にとって返し、同じ立場の若者を引きずって戻ってきた。死体はすぐに板塀に乗せられ、師弟はそれについて歩き出した。
その死体が白鳥の前を抜ける。微かな風が起こり、二種類の異臭が鼻孔を付いた。彼は立ち去ろうとする医師の手を取った。
「これ、何の臭いですか?」
一つは薬の臭いだ。これが強い。しかし白鳥が気になったのは、卵が腐ったような、と形容するのが最もふさわしい臭いだった。医師も鼻先で手を仰ぎ、鼻の頭にしわを寄せた。
「恐らくは硫黄だろう」
「硫黄、ですか? 彼はそういう物を扱う仕事をしていたんですかね」
「さあな。ただ、それほど強くはない。薬草の臭いの方がきついだろう?」
医師は首を振り、そっけなく白鳥の肩を叩いて走りだした。瞬く間に姿が見えなくなる。あれほど慌ただしい医師を――しかも朝方に――見るのは初めてだ。
その珍妙な光景に後押しされるように、血溜を恐る恐る見ていた同心達も動き出した。
彼らには先ほどまでのような活気がなかった。重たい体を引きずるようにして、それぞれその場を離れていく。
この変貌ぶりは何だろう、と白鳥は疑念を抱いた。
河津でさえも厳然と、赤く染まった地面を睨んでいる。血溜から目を逸らしたのは、目明しが息を切らして現場に駆け付けたあとだった。
「片付けておけ」
そっけなく命じた。
先ほどの紙きれは綺麗に折り畳んで布にくるみ、懐に入れてしまったようである。そのまま、さっさと踵を返してしまう。遠のく背中を白鳥は慌てて追った。
気を落ち着けるためなのか、番所までの帰路は、わざと遠回りをしたようだ。大通りを通るのではなく、ひと気のない小路の影を掻きわける。その間、河津はご自慢の髭を引っ張ってばかりいた。
番所の近くまで戻ってきた時、今度こそ見逃しようもない疑問が白鳥の心に立ち上り、思いつめた様子の河津と肩を並べた。流れ来る潮騒の音が、二人の間の沈黙を埋めてくれていた。
「ねえ、河津さん」
「何だ?」
「あの紙きれ、何だったんですか? 天誅とか、梅津神之助とか」
隣を歩いていた河津がかっと目を見開き、白鳥の口を押さえた。
その様子に白鳥は面食らった。河津の顔がこれまでにないほど青ざめていたからだ。
こめかみから頬にかけて、幾筋かの汗が伝い落ちていた。彼はしばらく周囲を確認し、聞き耳を立てている者がないと分かるや、肩に入れていた力を抜いた。
「何も聞くな」
「でも――」
「ここでは何も話せねえ。お嬢に話を通してからだ」
こんなことを言われては致し方あるまい。不信感を覚えたが、何も言えなかった。
番所に入ると、すでに平野が土間のところで待機している。河津は無言のまま――女上司に睨まれているのも無視して――履物を脱ぎ、控室に行こうと身ぶりで示した。
その様子に平野も異様なものを感じたのだろう。素直に頷いて控室までの板張りの廊下を辿った。
控室の周囲を念入りに確認した河津は、下男に人払いを命じて引き戸を閉めた。
「死体の背中に、こんなものが」
と河津は女上司の冷眼にもめげず、布に包んだあの紙きれを取り出した。血も乾き、赤褐色に染まっているが、その中央に書かれた力強い文字は決して消えていない。
〝天誅 梅津神之助〟
この文字を見て、平野も他の同心達と同様に驚愕で表情を歪ませた。
「……分かった。二人とも町奉行所に行くぞ」
言うや否や、平野は勢いよく立ちあがって駆け出した。河津もそのあとに続く。ただ一人、事情の掴めない白鳥も、慌てて二人のあとを追った。