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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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嘲笑する男①

「さあさあ、皆さん!」

 豆河通りの一画で威勢の良い声が響き渡った。

 その声の主は溌剌とした五十代半ばの男であった。彼は何種類かの色刷りで仕上げられたチラシを片手に、朗々と口上を述べ始めた。

「来週、来週、来週から、この小劇場で演劇をやるよ。主役はあの! あの熊蔵、熊三郎親子だ」

 その男はそこまで叫ぶと、集まった群衆に色鮮やかなチラシを配り始めた。その仕上がりの美しさからか、どっと人が群がりくる。普段の豆河通りのそれとは違う騒乱が起き、人の流れが滞留していた。

 このけたたましい様子を遠巻きに見ていた白鳥と河津は、揃って眉間にしわを寄せて、顔を見合った。

「熊蔵と熊三郎って、知っているか?」

 河津が、自慢の髭を撫でながら首をかしげた。白鳥の方は風で流れてきたチラシを拾い上げ、その完成度に感嘆の声を上げた。

「いや、知りませんがね……。かなり金を掛けた宣伝をしましたからね。きっと、名うての役者なんですよ」

 二人の無頼者が優雅な世界に無関心な中、群衆はその男の話に夢中だった。清右衛門というのが男の名前であるらしい。どうやら劇場の支配人のようだ。彼は実に歯切れの良い言葉遣いで、あっという間に群衆を虜にしてしまった。

 チラシを貰ったにもかかわらず、人々は清右衛門を取り囲むようにして何やら騒いでいる。

 そろそろ止め時だろうか、と警邏中の二人の同心が動き出すのと同時に、群衆がまた色めき立った。主に壮年の主婦層が、であるが。

「きゃあ、熊三郎さーん」

「こっち、こっち見たわ!」

「これ、食べて! うちの煮付け!」

 なんていう黄色い声援が飛ぶ。その熱烈な様子に白鳥も河津も尻込みをしてしまった。

 地獄の釜よりも熱そうな空気が辺りには渦巻いていた。

 清右衛門と、どこかから出てきた彼の部下達は、必死の形相でそのおば様方を抑えている。それを煽りたてるように、熊三郎と呼ばれた若い、二十代半ばくらいの男が笑みを浮かべながら近づいた。

 再び歓声がけたたましく響き渡った。

 熊三郎という男は随分と女に慣れているらしい。白鳥は内心でほぞを噛みながら、その美麗な、と評するのが最も正しいであろう中性的な顔立ちをした若い男を見つめた。

「ああ、どうもありがとう」

 熊三郎は全く笑みを崩すこともなく、おば様方の熱烈な声や好意を受け取っている。チラシを取ると署名をしたり、伸ばされた手を取ったりと奉仕の精神は実に豊富なようだ。

 またしてもチラシが飛んできた。今度は署名入りだ。豆河通りを故郷とする白鳥からすれば、ゴミを放置することなど出来なかった。

 熊三郎の登場によって、興奮はますます留まることなく、彼に対する声援や熱意が増すばかりだった。

白鳥と河津は頭を抱えながら、腰に帯びた印籠を取り出した。

「こら! 町奉行所です。これは何の騒ぎですか!」

 白鳥が声を掛けると、おば様方の脅威の眼光が一斉に向いた。

 無数の視線にさらされるうという恐ろしい現場に直面するのは久々だった。しかも皆、殺気だっている。顔を引きつらせた白鳥を無視するように、河津は泰然と前に出た。

「散れ、散れ! こんな騒ぎを起こすんじゃない。その熱意は劇を観たあとにとっておけ」

 こういう時、河津はちょっぴり役に立つ。彼のこの弁におば様方は納得したようだった。そして何より熊三郎が河津を弁護した。

「そこの同心さんの言う通りです。申し訳ありません。必ず良い劇をお見せいたしますから、我々に稽古の時間をください」

 熊三郎が、誰でもうっとりさせるような笑みを浮かべてから頭を下げると、さすがのおば様方もいかんともしがたく、皆、気もそぞろに帰って行った。

 その熱意の大行進に、白鳥も河津もほっと胸をなでおろした。一方で熊三郎は、じっと二人の同心を見て、突然心を翻意させた。ふっと蔑むように溜息をつき、冷眼を向けた。

「ふん、さっさと仕事しろよ、この愚図共」

「あ?」

 その口ぶりに河津が鼻白んだ。けれども熊三郎は全く怯んだ様子もなく、鋭く睨みつけた。

「ちっ! 自分より弱い立場の人間には強く出るんだな」

 白鳥はぐるりと目を回した。一方で悪態をついている熊三郎を清右衛門が何とか抑えつけた。その言わば雇い主に対しても、熊三郎は鋭く睨みつけた。

「あんたもあんただよ。くっだらねえ売り方しやがって。あの親父と一対みたいに考えられたら、俺の役者としての価値が落ちるだろ」

「まあ、まあ。これも宣伝のうちですよ」

「それを考えろって言ってんだよ。これで仕事が来なくなったらどうすんだよ」

 熊三郎は先ほどまでの好青年然とした姿を完全に失っていた。その変わりように、白鳥は眉をひそめた。

 けれども口を挟む余裕はない。小劇場の入り口で影が揺らぎ、そこからもう一人、男が出てきたからだ。

 四十代半ばくらいだろう。水も滴るという形容がよく似合う男だった。熊三郎と比べると渋みが増している。落ち着いた佇まいといい、眉間に寄った一本のしわといい、得も言われぬ威圧感があった。

「熊三郎」

 声まで低く、地鳴りのようである。腹に響くような落ち着いた雰囲気があった。

 呼ばれた熊三郎は舌打ちをして、清右衛門から手を離した。その厳めしい顔をした壮年の男は深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。お怪我は?」

「いやいや、大丈夫ですよ、熊蔵さん。若いうちにはよくあることですからね」

 清右衛門は気の良さそうな笑みを浮かべ、しきりに頭を下げる熊蔵の肩を叩いていた。

 その背中を憎々しげな様子で睨んでいた熊三郎は、もう一度舌打ちをしてさっさと劇場の中に戻ってしまった。

 その背中を見ることもなく、熊蔵と呼ばれた厳めしい男は白鳥達にも頭を下げた。

「申し訳ありません。あとで言って聞かせますので」

「おう」

 河津は幾分か気を悪くしているようだ。白鳥の方はまじまじと熊蔵を見つめていた。

「ん? 何か、ございましたか?」

「ああ、いえ。親子といっても随分と違うなと思っただけです」

「そうですか? 顔は似ていると――」

「いや、性格が」

 なるほど、と熊蔵は納得し、その渋い顔を微かに歪めた。

「昔は劇団で地方興行をしていたんです。年に一度、市中に帰ってくるというくらいで。そのためでしょうね、あの子には父親だと思われていないんですよ」

 何でもかんでも父親である熊蔵の反対を行こうとして、町のゴロツキと付き合い、女とまぐわい、とにかく不摂生な仕事をしていたのだという。

「何の因果か、私と同じ仕事にしか就けませんでした」

 そう言って笑う熊蔵は、悲しみと嬉しさが入り混じったような、とにかく複雑な表情だ。これが役者としての深みか……もしくは父親としての情愛か、と白鳥は感嘆の息を漏らし、熱烈に熊蔵の肩を叩いた。

「劇、必ず観に来ますね」

「ええ、宜しくお願いします」

 深々と頭を下げる熊蔵、そして清右衛門と別れて二人は警邏を再開した。

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