無関係の報復①
「ああ、休みだってのに」
買い物客で混雑する中、白鳥は一人で嘆いていた。
何日かに一度しかない休み。この日だけは不可侵で、誰にも邪魔されず、のんびり過ごそうと決めていたのだが、なぜか父親が休みの日を把握していて、朝も早くから若い衆をよこしたのである。
その結果、白鳥は何も見返りがないというのに実家である白鳥屋へと連れて来られた。
「……本当にねえ。こうも仕事続きだと体が壊れますよ。自分は休んでいる癖に」
白鳥は今、白鳥屋の店頭でぶつくさと悪態をついていた。何ゆえ、白鳥がこの日に実家に連れてこられたのかといえば、当主である父と次期当主たる兄が休みだからだという。
白鳥屋としては、何の役にも立たない次男坊でも一応当主の血筋の人間を置いて、面倒事が起きた場合は押し付けたい、という腹づもりなのだろう。
店から見る豆河通りの風景は今日も今日とて騒がしく、人の通りが多いようである。何ともいいことだ。今日も盛況だということなのだから。
「坊ちゃん」
と老年の番頭の男が声を掛けてきた。自分が小さい頃からお爺さんだった気がするのだが、今でも充分にお爺さんで、買った棺桶に埃がかぶる、というような有様である。その老人が文のようなものを携えて白鳥の前にやってきた。
「何です?」
「大変心苦しい話なんですが……」
そんなことは思っていないくせに、と思わず悪態をつきそうになった。
けれどもこの番頭には頭が上がらない。昔からいるし、自分のお爺さんのようなものだから。白鳥は溜息をついた。
「用件を端的にどうぞ」
「これを向こうの羽島屋に届けて来て下さい」
で、与えられる仕事といえば雑用だ。二十年以上前から変わらないんじゃなかろうか。
白鳥は肩を落とした。自分のふがいなさにか、それとも面倒な雑用にかは、彼自身にも分からなかった。しかし文句は言わず、店から出て、濁流の如き豆河通りの人の波を掻きわけた。
羽島屋は白鳥屋からそう離れていない場所にある。
少し寂れた店先に顔を出すと、そこの老主人が満面の笑みで白鳥を迎えてくれる。子供の頃から豆河通りで過ごしているから、老人達は白鳥を孫か何かだと勘違いしている節がある。
羽島屋でも扱いは同じだ。お菓子だのお茶だの、果てはお昼ご飯まで用意され、それらを美味しく平らげて、再び外に出た。
「ふう」
こういう扱いを受けるから、この場所が嫌いになれないわけだ。白鳥は満腹に近い腹をさすりながら、のんびりと帰路についた。
正午を過ぎてしばらくしているが、まだ人通りは少なくならない。むしろこれから沢山の商人達がやってきて、商品と貨幣が激しく行き交うことになる。
そんな日々の営みをぼんやり見ていると、商人が奏でる雑然とした物音とは違う、一種の騒乱が白鳥の耳道を揺さぶった。
どこか遠くの方から、人々を押しのける男の怒号、倒された女や転びそうになった男達の悪態、そして罵声が響いてきた。
通りの反対側で人の波が大きく分かたれている。必死の形相をした男が、猛烈な勢いで押しのけていた。人垣が真っ二つになり、すぐに戻っていくさまは、まるで人体に出来た傷口が治っていく経過のようだった。
そんなことを考えていた白鳥の方にまでその男が近付いてきていた。汗みずくで、顔を真っ赤にしている。ゼイゼイと息を切らし、着物の前をはだけさせていた。下着も丸見えであり、どうやらよっぽど急いでいるらしいと分かる。
その人々のどよめきと苛立ちを向けられている男の顔に、白鳥は眉をひそめた。見覚えがあった。いつだったか、詐欺容疑で捕まえた男に良く似ているような気がしたのだ。
その男の方も白鳥に気が付いた。疲れ切った顔を上げ、やにわに笑うと白鳥の方に猛然と突き進んできた。
強引に押された連中が、その汗みずくの男を殴ろうとした。白鳥が慌ててそれを止めると、その男は白鳥の着物の襟元を掴んで、人目につかない方へと引きずりこんだ。
「ちょ、ちょっと!」
思わず抗議の声を上げるが、男は肩を激しく上下させたまま、構うことなく豆河通りから離れていった。
男が立ち止まったのは、どこかの路地の裏だった。昼の日差しさえ入ってこないような、薄暗い場所だ。砂利道に男の顎から滴る汗の玉がこぼれ落ちた。
白鳥は膝に手をついて乱れた息を整え、男を睨みつけた。
「はあ……あなた、確か……」
「い、磯部だ」
汗みずくの男――磯部が切れた息の間から何とか言葉を漏らした。彼は砂利道で尻もちをついて、家の壁に背を預けながら激しく呼吸をした。その顔は疲れ切っている。ふっと息を吐いた白鳥は、さして同情的な気分にもならず、磯部を睨み下ろした。
「また詐欺ですか? 出頭してきた?」
磯部はかっと目を見開き、白鳥の方に四つん這いで近付いてきた。砂まみれの手で白鳥の着物を掴んだ。
「ち、違うんだ、今日は」
「……今日は?」
確か、前回話を聞いた時は、のらりくらりとかわされて、結局詐欺を認めなかったはずだ。そうした非難の視線を浴びて、磯部はばつが悪そうな顔をした。
「あ、いや。でも、でも、それも全部認めるから、どうか俺を助けてくれないか?」
「……」
「本当だってえ。話聞いてくれよ。あんた、同心だろ?」
「今日は非番なので、生憎ですが」
と言いながら、白鳥は磯部の手を振り払った。着物についた砂を払っていると、磯部は地面に手をついて、しとどに涙をこぼした。砂利道を別の玉模様で染めた。
喉から絞るような嗚咽を漏らしている。小刻みに肩を揺らし、土下座するように何度も白鳥に頭を下げてきた。
「お願いします……お願いします……」
大の男にそう言われては断りにくい。その上、酷い罪悪感まで押し寄せてきた。
「……話だけですよ」
磯部はぱっと華やぐような笑みを浮かべて、砂利道の上で正座をした。その変わりように白鳥は渋面を作った。たぶん悪い男じゃないんだろうが、人が良すぎるように思う。
「じ、実はさ。俺、闘犬詐欺をやってんだ」
「闘犬……ん? 詐欺?」
「あ、うん。あんた達がこの前追求したのは、別の奴がやってんだよ。俺の本職は闘犬の方。で、この詐欺ってのはさ、要するに八百長なわけだ。決まった犬を勝たせるの」
「……それに失敗した?」
「まあ、端的にいえばそうなんだけどさ。これがおかしいんだよ」
磯部は首を捩じ切らんばかりに捻った。要するにこういうことが言いたいのだ。
自分は勝たせるべき犬に細工をしたはずだった。にもかかわらず結果は真逆になり、怖い人達に追われている。何かの陰謀だ、と。
白鳥は呆れ返ったものの、鼻水と涙と汗でぐしょぐしょの詐欺師に見つめられ、遠くの方から怖い男達の怒号まで響いてきて、何となく見離す気にはならなかった。
「じゃあ、ちょっとここで待っていてください」
白鳥はそう言って、磯部の為に着替えを用意した。とにかく、彼の服装はあまりに貧相だったから目立ち過ぎたのだ。