闘技場⑤
ここで白鳥の意識が現実に戻ってきた。
今、四角に区切られた舞台の上では、河津と伊波が激しい戦いを展開している。お互いに手傷を負っていた。河津の方は頬から血を流し、伊波は腕を斬られていた。
これは普段の見世物としての決闘とは違って、本当に純粋な殺し合いを目的としている。客は熱狂的に大声を上げ、二人を応援していた。どちらが死んでもおかしくないと思えるような迫力が、そこにはあった。
「全く、殺したら洒落になりませんからね……」
と白鳥は独りごちた。
舞台の上では河津が中段から斬りかかり、それを伊波が自慢の剣で防いだところだった。鋭い閃光が迸る。その一瞬の様子に観客はますます盛り上がり、辺りを震わせるような大声を発していた。
二人は鍔迫り合いを繰り広げ、力比べをするように互いの体を押しあっていた。
「……修業は続けていたんだな!」
「あなた以外に負けたことがないからな!」
伊波も白い歯をむき出しにして、渾身の力で押し返そうとする。
実力は河津の方が上だ。とはいえ、白鳥の目にはほとんど互角に映った。それほど伊波も鬼気迫っており、汗みずくになりながら河津に一太刀を入れようと躍起になっている。
(ん?)
いま、白鳥は楽屋から舞台の方へと向かう通路の真ん中に立っていた。
この地下の空間から出るには、舞台を挟んでちょうど反対側にある出入り口から出なければならない。その場所に見慣れた男達の姿があったのだ。
入口を塞ぐようにして立っていたのは同心達だった。何故かは知らないが完全に武装している。彼らは河津と伊波の戦いを感嘆の面持ちで見ているようだ。
まあ、治安を守る者として訓練は欠かせない。そして河津は市中でも随一の剣の使い手だ。それが殺気をむき出しにして戦っているのである。しかも戦局はほぼ互角だ。
勝負を分けたのは、ほんの些細な心持ちの違いだったのかもしれない。
火花が散るような激しい打ち合いの最中に、河津が唸り声を上げて大上段に構えた。
一見すると隙だらけで、素人である白鳥からすればいくらでも胴をなぎ払えるような気がする。
けれども内実は、河津にとっては最も隙のない、神速の拝み打ちが放てる得意の形なのである。
それを知ってか知らずか、伊波が鋭い突きを見舞った。観客が大歓声を上げる。河津がそれを紙一重で避けたからだ。
彼はそのまま、大地を揺るがすような歓声に後押しされて、隙だらけになった伊波の背中を斬りつけた。
鮮血がぱっと舞台に飛び散り、伊波が崩れ落ちた。
観客は一瞬水を打ったように静まり、我に返ったように口を閉ざしたが、河津が服の袖で刀身を拭うと、沈黙を打ち破るように万雷の拍手が巻き起こった。
指笛を吹き、唸るような声を上げ、足踏みをする。地面が激しく揺れる。舞台の上に吉平が立ち、青ざめた顔で何やら言っている。
白鳥は力なく横たわった伊波に視線を釘付けにしていた。
その時だった――。
「町奉行所だ!」
という低く唸るような声が地下空間に響き渡った。
白鳥は、ぱっと出入り口の方を見た。そこには通路を埋め尽くすようにして何十人もの同心の姿があった。
その先頭に、どこから見ても冷厳な上司の姿を見てとって、白鳥はまたぐらを縮み上がらせながら、慌てて河津の元へと駆けていった。
それが呼び水となったのだろう。
地下では大混乱が起こり、同心達がそれを一網打尽にするというような、鰯の地引網も真っ青な光景が繰り広げられた。
白鳥は急いで河津の元へとやってきて、倒れ伏した伊波を見下ろした。
「こ、殺しちゃったんですか?」
「いや」
と返したのは伊波だった。彼は一切身じろぎをすることなく、こう呟いた。
「伊波虎次郎はここで死んだ。俺は新しい人生を歩いていくことにする」
それは幾分身勝手な言だっただろう。河津は眉間にしわを寄せていた。
「……これは捨てる」
伊波はそう呟き、握りしめていた剣を離した。
白鳥はほっと胸をなでおろした。あの体の弱かった奥さんの為に、一度死ぬのも悪くないと思ったのだ。
「それは良かった……仕事が欲しかったら、白鳥屋へどうぞ。次男の徳次郎から話を聞きました、といえば、すぐにでも仕事をくれますよ」
伊波は微かに肩を震わせて笑い、誰にも分からないくらい微かに頷いた。
楽屋の方からもどっと人が飛び出してきた。武器を持っているあたり、恐らくは用心棒なのだろう。伊波の事情に首をかしげていた河津は、再び剣を構え直し、髪の毛が逆立つほどの殺気を発しながら叫んだ。
「伊波。あとで事情は話してもらうぞ」
河津は、誰が見ても戦慄を覚えるような冷たい笑みを浮かべ、剣を振り上げた。
近付いてきた銀主屋の用心棒を紫電が閃くよりも速く斬り伏せていく。その腕前は、まさしく市中随一と称しても差し支えはないほど鋭いものだった。
彼はあっという間に十人ほどを斬り、喚き散らす吉平を睨んだ。
「さあ、お前の狂乱もお終いだぞ」
「これが狙いだったんだな!」
「……いや、全く知らなかった」
河津は本当に申し訳なさそうに吉平に頭を下げ、一息で彼に肉薄した。
あとはあっさりと終わった。吉平は商人であり、見世物小屋の主人だが剣客ではない。剣の峰でしたたかに打ちすえられて昏倒してしまった。
白鳥の方は急いで楽屋の奥へと向かった。そこはもうがらんどうだ。けれどももう一人女がいるはずなのである。
伊波の楽屋を覗くと、若くて可憐な、線の細い女がいた。
「さあ、もう終わりましたから」
白鳥が笑みを向ける。女は恐る恐る彼に近づいてきた。
楽屋から舞台のところに戻ってくる。同心達が荒方の観客と銀主屋の関係者を縄で縛りつけ、河津を舞台の中央で正座させた平野が険しい顔をしていた。
白鳥は表情を引きつらせた。伊波もその近くで手当てを受けている。
女は彼の元へと駆け寄り、しっかりとその傷ついた体を抱きしめた。
その様子に河津が目をひんむいている。白鳥は遠くの方から、手当をしている同心に指示を出した。もちろん無言で、手ぶりだけだ。河津が事態を把握する前に、さっさとどこかに消えろというわけである。
「白鳥!」
必死の形相で手を振る白鳥に、平野の鋭い声が飛ぶ。白鳥は肩をすくめ、河津の隣で正座をした。
「随分と面白いことをしていたみたいだな」
彼女は面白くなさそう言い、苦々しく二人を見下ろしていた。
白鳥としては、何故、彼女がここを知ったのか、ということが気になって仕方がなかった。その問いに対して、女上司はそっけなくこう返した。
「……まずは調書の日付だ。そこまで書いて消したということは、怪しい誰かが客としてきたのだろうということが分かる。それから河津の態度だ。剣をいじるということは、そういう人間が関係していたのだろうと推測できる。そして銀主屋のことはすでにタレコミがあった。伊波という名にももちろん心当たりがある」
あとのことは簡単だ。白鳥と、そのあとをつける河津を追っていき、この場所に行きついた平野は、すぐさま取って返して町奉行所から人員を送ってもらった。
ちょうど昼番と夜番の人間が引き継ぎを行なう時間だったこともあり、案外と多くの人が集まる結果になった。
「お前達には折檻が必要だろうな」
平野は持っていた木刀を左手に、ぱしん、と打ちつけた。
その目は一切の感情を失って、ガラスのように無機質である。
二人は思わず抱き合ったが、そんなことで鬼の上司は許してくれない。この違法な見世物小屋の男達と共に土蔵に放り込まれて、平野の苛烈な取り調べを受けたことは、全くの事実だった。




