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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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踊る死体③

 この三つ又屋の裏手には、荘厳な庭園が築かれている。

 敷地を区切る土塀がぐるりと伸び、その内側に梯子が一本、立てかけられていた。傍らでは、よく見えるようにと目明しが松明を掲げていて、周囲は昼間と同じくらい明るく保たれていた。

「どうやら、ここから逃げて行ったようです」

 同心が平身低頭した様子で平野に言う。すると、この女は一見すると傲岸な態度で、つんと顎をそびやかした。そのまま面上を涙で濡らした白鳥を一瞥し、彼に意見を求めた。

「こ、ここから、逃げた、って誰が、い、言ったんですか?」

 まだ完全に平静には戻っていないが、先ほどよりはましである。平野はそれを内心で称賛しつつ、外見はごく冷厳な表情を保った。

「その通りだな、目撃者がいたのか?」

「はっ、手代の茂吉が見ておりました」

 というわけで、この裏庭に手代の茂吉が呼びつけられた。この男は昔から三つ又屋に仕える男であり、もちろんのこと白鳥も知らぬわけではない。同心に連れられた茂吉は、心の底から白鳥に同情したような顔をした。

「徳次郎さん……まさか、若旦那様がこういうことになるなんて」

この茂吉の憔悴ぶりは、白鳥でさえ正気を保たねば、と思い直らせるような力が合った。まだ五十歳にも満たないというのに、同心達に両の脇を支えられなければ、真っすぐ歩けないような有様である。

 白鳥は、半ば頭を抱えるようにして髪の毛を掻きむしり、それから一つ息を吐いた。

「あ、あの、犯人見たんですか?」

「ええ。この梯子を登っていくのを。あたしが声を掛けたら、慌てた様子で逃げて行きました」

 そう言って、茂吉がちらと梯子を見る。その竹製の梯子は使い古されているようだ。どこかの植木屋の所持品なのか、土の付いた段差が黒ずんで見えて、白鳥はもっと良く見えるようにと松明を近づかせた。

「つまり、こいつを回収しそびれたんだなあ」

 近くにいた河津が、呑気な様子で梯子を手に取った。それは存外軽いらしく、彼の膂力であれば片手で持てるようだ。

「用意周到は、周到らしいな……」

 平野も軽く頷いている。その二人の様子を見て、白鳥は茂吉に向き直った。

「ど、どちらの方に、逃げて行ったのかは分かりますか?」

「いえ、あたしが梯子に登った時にはもう、いなくなっておりましたから」

 白鳥も頷いた。そこで河津に視線を戻すと、彼は疑わしげに首をひねっていた。

「何か?」

「いや、大したことじゃねえ」

 と言った河津を平野が睨んだ。大したことであろうとなかろうと、気付いたことは全て言う。これが捜査の鉄則だ。それを思い出したのか、河津は顎に蓄えた髭を掻き、夜風に消え入りそうな声で呟いた。

「……この梯子、何かおかしいんだよなあ」

「何がです?」

「いや、それが分かんねえんだ。なあ、茂吉さんよ」

「へい」

 茂吉が腰を屈めると、河津は険しい顔をした。

「この梯子、本当に犯人が持ってきたのか?」

「へ?」

 この河津の問いに、白鳥も茂吉も素っ頓狂な声を上げた。その傍らでは、平野が冷徹な顔をして、この古くからの部下をじっと見ている。

 それで河津は身軽な動作で梯子を登り、土塀の向こう側――すなわち通りに面した側に松明をかざした。

「うーん……」

 と頭を抱える河津を、平野が見上げた。

「どうした?」

「表から来たんなら、土塀のどこかに梯子の痕くらい付いていても良さそうなもんですがね、どこにもないんですよ」

 要するに河津が言いたいのは、この梯子が本当に使われたのか、ということであった。

 行きはともかく、帰りは闇夜に紛れることになる。まさか夜に梯子を持って歩く人もそうはいまい。

 こういう物を使う職人は、大抵朝早くにやってきて昼過ぎには帰ってしまう。夜まで仕事をするような奴は、よほど腕の悪い奴だろう。腕が悪い、という謗りを受けてまで善一郎を殺したかったのかどうか、河津には判断が付きかねるというのである。

 その疑問に対して、白鳥が目をひんむいた。掲げた松明が見慣れた河津の顔に不気味な影を落としている。

「それじゃあ、河津さんは三つ又屋の誰かが善一郎さんを殺したっていうんですか?」

「そうは言わんがね、逃走経路はこれじゃないんじゃないか?」

「それにしたって同じじゃないですか! 勝手口にも、表の道にも誰かがいるんですよ? この店の誰かが手引きをしない限り、絶対に店の中には入れません」

 声の限り叫ぶ白鳥を見下ろして、河津は思案していた。

この分からん坊をどう説得してやるべきか。平野に任せてもいいのだろうが、彼女の心は冷淡に過ぎる。

 いくら白鳥でも、職を辞してしまうかもしれない。白鳥屋に彼を受け入れる余地はなくとも、たぶんどこかの店に潜り込むことは出来る。それくらいには白鳥を買っていた。

 逃がしてしまうのは惜しい。仕事ぶりは真面目だし、段々と平野の言動にも慣れてきている。せっかく育てた魚だ。上手く使わねばならぬ。

「分からん。善一郎が手引きした可能性だってある。ともかく、これは俺達を騙すための手じゃないかと思うんだ」

「でも、ここにいる茂吉さんだって、逃げる影を見たって」

「そうです、あたしが嘘を言っているっていうんですか? 善一郎さんを殺した奴は、この梯子を使って逃げていったんですよ」

 そう言い切った茂吉を、河津がじろりと睨んだ。

「あんた、殺す現場を見たのか?」

「いえ、そりゃ見ちゃいませんが……」

「じゃあ、そいつが犯人かどうかは分からねえ。ともかく俺は、この梯子の持ち主に当たるぞ」

 こう宣言した河津に、たぶん平野を含めた全員が度肝を抜かれた。

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