闘技場④
翌日、白鳥は頭を悩ませることになった。
何せ、河津は世の中を悲嘆して剣の手入れに余念がない。時折溜息をついては、過ぎた日のことを思い出しているようだ。何と言うか、ふられた直後の乙女みたいである。
白鳥はその様子をちらちらと窺いながら、何とか話を切り出そうと決意を固めた。
「ねえ、河津さん?」
「あ?」
彼は剣から目を離そうともしない。銀主屋が市中で営業を終えるまであと二日しかない。白鳥は腕組みをした。
「伊波さんのことですけど」
しかし河津はかぶりを振った。自慢の髭も萎れているように見える。
「……何も言うな。あいつは剣士としての精神を失った。あんなところで殺し合いをして、金を稼ぐような奴に費やす時間はねえ」
「でも――」
「言うな!」
河津が普段では考えられないほど鋭い怒声を上げて、はっと顔を歪めた。自分でも気付かないくらい気が立っているのだろう。彼は少々苦い顔をして、深く溜息をついた。
「言うな。もう忘れてえんだ」
何とか話を繋げよう、と白鳥が身を乗り出すと同時に控室の引き戸が開いた。前のめりになった白鳥は苛立たしげな顔をそちらに向け、冷厳な表情の上司を睨んだ。
「……何だ、白鳥?」
「いえ」
どうやら、さっさと警邏に行けというらしいのだ。
白鳥は膝を打って立ち上がり、河津は見るからに無理やり平静を装い、周りを見ることもなくふらふらと外に出た。その様子に上司は首をかしげた。
警邏をしている間も口を開けなかった。二人は豆河通りの喧騒を抜け、口を閉ざしたまま、結局順路を回って番所まで戻ってきてしまった。
いつもの通り、白鳥が控室に向かい、上司に帰還の報告をする。すると彼女は縦帳――調書だ――から目を離し、冷淡な視線を白鳥に向けた。彼女はちょうど白鳥が日付を消した部分を開いていた。
「何かあったか?」
「……いえ」
平野に話したら、間違いなく面倒なことになるだろう。白鳥は口を閉ざした。それでは上司も追及する気にならなかったのか、再び縦帳に戻った。
「昨日、客が来たらしいな」
「それは……ええ、はい」
「どんな客だ?」
「ろくでもないのですよ。同心に金を握らそうとする連中でした。河津さんに渡そうとして――」
白鳥はとっさにそう答えて、ぴくりと眉を動かした。
ここまで話しても良かっただろうか。けれども言ってしまった以上はあとの祭りだ。それに平野もあまり気にしていないようだった。
土間の方に戻ってくると、河津がじろりと睨んできた。白鳥は口を滑らせたという後ろめたさから、彼に一つだけ忠告をした。
「伊波さんは、あなたが考えるほどの人間じゃありませんよ」
河津は、ふん、と鼻を鳴らし、そのまま自分の仕事に戻った。
空が紫色に染まる頃に仕事を終え、白鳥は今夜も銀主屋に向かおうと心に決めた。
すると、何故か一定の間隔を空けて河津もあとについてくる。斜陽に染め上げられた髭面が厳しげに歪められていた。
何度歩いて振り返っても、やっぱり同じだ。河津は恨めしげな顔をして白鳥と付かず離れずを繰り返している。
そのうち白鳥は立ち止まり、河津の顔をまじまじと見つめた。
彼はすぐに降参して近づいてきた。もう港に足を踏み入れている。夕暮れ時ということもあり喧騒はなりをひそめ、海は朱に輝き、波が流れては砕ける音が響いていた。
「……どこに行くんだ?」
「どこでもいいでしょう?」
白鳥はぶっきらぼうに返した。河津は絶句していた。何故か酷く傷ついた顔をしている。
そんな彼を置き去りにするように、白鳥は踵を返した。同じように幾人かの男が、東から流れてきた夜の闇に紛れるようにして、何の変哲もない寂れた建物の方に向かっている。
「いらっしゃいませ」
あの銀主屋の主、吉平が満面の笑みで客を出迎えていた。彼は二人の同心に気が付くとさっと表情を変えたものの、素直に金を払ったものだからむげにも出来ず、微妙な顔をして中に入れてくれた。
白鳥は何も言わずに舞台の脇を横切り、楽屋の方に向かった。
それにも吉平は良い顔をしなかったが、同心相手に騒ぎを起こすわけにもいかず、黙って仕事に集中したようだった。
それをいいことに楽屋のある舞台裏に入る。河津は感心しきりの様子だが、これから顔を合わせる男のことを知ったら、怒り狂うことだろう。
それでも白鳥は心を鬼にした。伊波がいる楽屋の前にやってくると、唖然とした様子の河津を待たせて、中を覗きこんだ。
どうやら彼一人であるようだ。白鳥はそっと手招きをして、河津に部屋の中に入るよう促した。
この同僚が楽屋に足を踏み入れると同時に、白鳥は勢い良く戸を閉め、そのまま塞いだ。
「おい! 何だ?」
という河津の馬鹿げた声は、すぐに聞こえてこなくなった。
代わりに伊波の低い声が響き、白鳥は安堵の表情を浮かべた。
物音に気がついたのか、伊波の嫁がそっと楽屋を覗きに来たが、白鳥は人の良い笑みを浮かべ、彼女に戻るよう促す。今、河津と顔を鉢合わせたら面倒なことになる。
楽屋の中の話し合いは難航しているようだった。見世物が始まっても、二人の男が話し合う声が聞こえてくる。舞台の方からは大歓声が漏れ聞こえてきて、どうやら銀主屋の営業は今晩も上手くいったようだ、と分かる。
しばらく引き戸に背中を預けていた。
舞台では猛獣使いや曲芸、他にも女のみだらな踊りと演目が移り変わっていく。楽屋の前もばたつきだし、奥の方からどす黒い顔をした吉平が現れた。
「……申し訳ありませんが、そこをどいていただけますか?」
張り付いたような、白々しい笑みだ。白鳥は半眼を向けたものの、ちょうど同じタイミングで楽屋からも声を掛けられ、そっと戸から身を離した。
中から険しい顔をした河津と伊波が出てくる。伊波は吉平に頭を下げていた。どうやら河津と口論をした末、戦いで決着をつけると決めたらしいのだ。
そう話し終えた伊波は朗らかな顔で白鳥を見、小さく頷いた。
話を持ちかけられた吉平は、しばらく逡巡していた。同心をこの見世物に参加させられるか、そして河津が客を満足させられるかと考えたのだろう。けれども伊波の出番が近付いてきていることもあり、彼は舌打ち交じりに河津の出演を許可した。
「せいぜい、死なないようにしてくださいよ」
これはどちらに掛けた言葉だったのかは分からない。けれども二人とも頷いて、ゆっくりと舞台の方へと向かっていった。
それがつい、十五分ほど前のことである……。