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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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闘技場③

「ええ、それで伊波さんという人について……」

 河津と別れて早々、白鳥は銀主屋が小屋を開いた場所に立ち寄った。そこは南の港の一角にある寂れた館の地下だ。そこに一時的な居を定めたようであった。

 開演間近ということもあり、上の方ではどたばたとした音が聞こえてきている。白鳥は堂々と町奉行所の印籠を見せて、先に中へと入れてもらったのだ。今は、その日一番に出るという猛獣使いの男達に、伊波について尋ねていた。

「伊波さんねえ。七、八年くらい前に急に来てさ。最初は用心棒だったんだ」

「でも、今は剣闘士?」

「うちの大将……この銀主屋の主は吉平って言うんだけど、あの人が公演中に悪漢に襲われたことがあったんだ。それをね、伊波さんはあっという間に蹴散らした。思えばそれからかなあ。その土地の荒くれ者とかを相手に、真剣で戦うようになったのは」

 どうやら実力は折り紙つきらしい。まあ、それは河津の言からも明らかだ。彼と同じ道場に通っていたのだそうだから一定以上の実力はあってしかるべきだろう。

 白鳥が納得した様子で頷いていると、猛獣使いの男がさっと顔を青ざめさせた。

「おやおや、何か?」

 振り返ると後ろに銀主屋の主――吉平が立っていた。柔和な笑みを浮かべた面上を、松明の明かりが照らしている。それが本来あるべき夜の暗がりとせめぎ合い、明白な陰影を作りだしていた。真っ白いもみあげが暖色に染まっている。

「……いえ、伊波さんについて調べていただけです」

「ほお、何故でしょう?」

 吉平の目がきらりと光る。そう問われて白鳥は思考を止めた。考えたら、自分が伊波を探る必要はない。何故、自分は彼のことをこうまでして調べたがっているのだろう。

「さあ? 僕にも分かりません」

 白鳥は半笑いで首を捻った。そこに嘘がないと察したのだろう。吉平もくつくつした笑い声を上げ、白鳥に手招きをした。

「伊波に直接尋ねれば良いじゃありませんか」

「でも」

「どうぞ、お気になさらず。あの男は使い捨てですよ」

「……どういう意味です?」

 吉平はのんびりと、これから熱狂の渦に巻き込まれるはずの舞台の脇を横切り、演者が控えている楽屋の方へと向かう。

 どうやら、もう客のうちの何人かは集まり、外で待っているらしい。辺りが慌ただしくなった。猛獣使いが二人の脇を駆け抜け、すぐさま見世物に入れるよう準備をしている。

 白鳥がその背中に追いつくと、吉平はぼそりと呟いた。

「彼は、いずれ死んでしまう」

「危険な仕事をしているからでしょう?」

「いいえ、剣闘といっても、細かな規則に則って死なないように工夫はしています。いくら相手が荒くれ者だからとて、家族はいるでしょうし、仕事もある。どちらかが降参する、ないしは深手を負うまで、と定めております」

「それでも命の危険はあるはずです」

「ええ、それはもちろん。けれども伊波は死にたがっている。いずれ無残に殺されて、この世から消えてなくなることを望んでいるんだ」

 二人は楽屋のとある一室の前に来ていた。吉平は、にっこりと笑って頭を下げた。

「彼の出番は二時間以上あとだ。話はゆっくり聞けるでしょう?」

 遠くの方では雑然とした人間の話し声や物音が聞こえる。その合間に猛獣の唸る声がして、白鳥は開演が近いことを悟った。

 伊波は、銀主屋でも一、二を争うほど人気であるためか、楽屋も個室が用意されているようだった。会場の方から届く、むっとするような熱気と歓声に後押しされつつ、白鳥はそっと楽屋の戸を叩いた。

「どうぞ」

 伊波の冷淡な――されども柔らかな声が返ってきた。その声色に白鳥は首をかしげた。河津と接していた時よりも、ずっと優しげだったからだ。

「失礼します」

 と頭を下げながら中に入ると、伊波は多少面食らった様子であった。

 それは白鳥が姿を現したということにか、それとも別の何かか。分からなかったが、彼はすぐに真面目な顔をして、そっけなく呟いた。

「何の用だ?」

 声の調子は、あの河津と接した時と同じくらい落とされている。楽屋はがらんどうだった。四畳程度の広さしかないが、全てが伊波の為に用意されているようだ。

 それ以外にも、どうやら彼の他にもう一人、女性がいるらしい。女性用の上掛けが壁際に掛けられていた。

 白鳥は首をかしげながら楽屋の戸を閉め、率直に河津との確執について尋ねた。

「それは、君に話すことじゃないだろう」

「でも、何だか気になるんですよねえ。河津さんの態度もそうだし、あなたの方も……」

 伊波は鋭く舌打ちをした。そして再び戸が叩かれ、今度こそ彼の目当ての人物が姿を現した。

 楽屋の戸を開けた女が、きょとんとした顔で白鳥を見ていた。その女は楚々とした雰囲気を身に纏った、実に可愛らしいお嬢さんだった。

「……あ、お客さんですか?」

 その女は、まるで清明な小川のせせらぎを思わせるような柔らかな声を上げた。自然、伊波の方も態度が柔らかくなった。

「ああ、悪いが、君は――」

「はい。別の部屋にいますね。あ、でも、お茶とか」

「お構いなく」

 いち早く冷静になった白鳥が笑顔でそう返すと、女は恐縮がちに頭を下げ、そのまま戸を閉めた。

 再度、伊波の方に視線を向けた。気まずそうにしている彼を見ているうちに、ある考えが閃いた。確か、彼の宿にも行李が二つあったと思うが……。

「彼女、見られると厄介なんですか?」

「そういうわけじゃ……いや、河津さんって、結婚はしたのか?」

「したように見えます?」

「……じゃあ面倒なことになるだろう」

「なるほど、奥さんですか……」

 白鳥は何とも尻心地の悪い思いをして眉根を寄せた。それが的確だったために、伊波は苦笑して、やっぱりまた態度を和らげた。

「うん、まあ、そうだ。しかし、これは河津さんには言わないで貰いたいな」

「もちろんです。僕だって結婚したら隠しますよ。それに、ここであなたが話したことも言いません。僕としては、ちょっと気になっただけなんです。何というか、ただの感覚なんですけどね、あなたが悪い人には見えなかったんですよ」

 そう真面目に言う白鳥を、伊波はじっと見つめていた。

 見ているうちにどんどんと渋くなっていく。伊波は腕を組み、溜息交じりに座っていた椅子の背もたれに背中を預けた。

「……河津さんに勝てなくて嫌気がさしたのは事実だ。あの人とは同じ道場でな。兄弟弟子だった。まだ十歳かそこらだった私はあの人の強さに憧れて、必死に剣の修業をして追いつこうとしたのさ」

「でも、勝てなかった?」

「その通り。十五年近くも研鑚を積んだ。どうしたら勝てるだろう、と時には卑怯な手に出ることさえもあった。でも、それでも歯が立たなかった」

 鍛錬の甲斐もなく河津との差は開く一方だったのだという。

 まあ、傍目から見ても、河津は武芸の才能に恵まれていると分かる。体も大きいし、並はずれた度胸も有している。伊波は絶望に打ちひしがれたのだろう。

「それで、どうにも自棄になっていた時、あれと出会ったんだ」

「奥さん……ですか」

「そう。当時は体が弱くてな。外を歩くのにも手伝いがいるような有様だった。家もそれほど裕福じゃなくて、治療もままならない状況だったんだ」

 そこで伊波は言葉を切り、傍らに置いてあった剣を取った。

「私にはこれしかなかった。妻を娶るにあたって、死んだ義理の母親に誓ったんだ。治療費は俺の腕一本で稼ぐ、と」

「……で、こんな仕事を?」

「いや、最初は用心棒だった。傍から見れば死に急いでいたように見えただろう。危険な仕事に手を染めなければならなかった。だが、治療も終わって、そういう仕事をしなくても良くなると、途端に欲が出てくるものだ」

 白鳥は首をかしげた。金か、それとも剣術の腕前の方か。無言で問うた。

 すると伊波はかぶりを振り、両方だと答えた。

「辞められなくてな。銀主屋の用心棒を選ぶ余興で、地元の悪童や荒くれ者と他流試合をしたんだ。もちろん、殺したり、死んだりしないように規則が定められている」

 そう言いつつ、伊波は剣を引き抜いた。金属の擦れるざらついた音が耳道を通りぬけ、明かりの下に鈍色の刃が露わになった。

「見ろ。俺の剣士としての魂はもうない」

 彼の剣は刃引きがされていた。斬れないように刃を潰しているのだ。彼は今、銀主屋で用心棒を育てているのだという。

「お前達には不都合だろう。だが、何かのきっかけがなければ、俺はもうこの世界から抜け出せないのだ。これを捨てる意思は俺にはない。誰かが捨ててくれなければ、どうしようもない」

「河津さんにあんな態度を取ったのは、それを知られないため、ですか?」

「うん。あの人は強いだろう?」

「ええ」

「ああして挑発すれば、必ずここに来る。そこで負けてしまえば、俺の人生は大きく転換する」

 伊波が笑った。その時、三度、戸が叩かれ、若い男が中に入ってきた。

「伊波さん、そろそろ準備を」

 彼は小さく頷き、剣を収めると、白鳥の肩を叩いた。

「あの人がここに来るよう、少しだけ手助けをしてくれ」

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