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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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闘技場②

 その日の夕暮れ、仕事も終えたあと、河津は肩を怒らせたまま番所を飛び出した。その剣呑な様子に白鳥は慌ててついていった。

 憤怒のあまり正常な思考を失っているように見えたからだ。もしかしたら人を殺してしまうかもしれない、と思えるくらいで、白鳥は黙ってその背中を追った。

 彼らがやってきたのは港に建てられた粗末な宿だった。潮騒がけたたましいほど聞こえ、海風で宿の壁面は煤けていた。

「お前、来なくてもいいんだぞ」

 宿に入る直前、落ち着きなく髭をいじっていた河津が呟いた。白鳥は眉を吊り上げた。ちょうど水平線に黄金の日が沈もうとしていて、茜色が彼らとその周辺を染めていた。

「その剣を僕に預けるんだったら考えます」

「……それは出来ねえ」

「じゃあ、ついていきますよ。同僚が殺人犯なんて、外聞が悪いですからね」

 河津は肩をすくめた。もう何も言う気はないらしい。

 宿に入り、足の汚れを落としてもらう。目の前で跪いた女中は、この安宿には不釣り合いなほど若く、顔立ちが整っていた。夜伽も兼ねているのだろう。薄手の着物一枚の下にある肉付いた肢体が露わになると、官能的な雰囲気がむらむらと立ち上っている。

 だが、河津は全く気にしていない様子で――いつもなら見とれるであろうに――厳しい表情を浮かべていた。それが何だか、伊波という男の厄介さを表しているようであった。

「伊波という男がここに泊まっているな?」

「ええ」

 女中は丁寧に河津の足を拭き、艶やかな笑みを浮かべる。恐らく普段なら鼻の下を伸ばしただろう。それほど、この若い女中のそれは必殺の雰囲気を持っていた。

「案内しろ」

 女中はいささかもがっかりした様子なく頷き、今度は白鳥の足を拭いた。こちらは商人然とした、多分の欺瞞に満ちた笑みを浮かべ、その娘の袖にいくらかの金を包んだ。

 彼女は急に上機嫌で白鳥に抱きつき、まるで小躍りするようにして二人を目的地まで案内してくれた。

 鼻歌交じりでいなくなる女中に、河津は溜息をついて引き戸を開けた。

「邪魔するぞ」

 という彼の声は緊張感に満ち満ちていた。語尾が僅かに震えていて、ぐっと喉を鳴らす音がする。

 戸を開けた姿勢のまま、河津は唖然とした表情になった。廊下に四角い枠の形に夕日が伸び、潮騒の音が強くなる。隣に立っていた白鳥はこそっと部屋の中を覗きこんだ。

 そこには一人の男がいた。河津と同じくらい鍛え上げられた精悍な体つきをしている。

 それと分かるのは、窓べりに座る男が半裸だったからだ。何故かは知らないが、服も着ないまま剣の手入れをしていた。差し込む斜陽で赤銅色の肌が鈍く輝いていた。

「伊波……」

 河津が振り絞るような声を上げた。歯を食いしばった表情は苦しげだ。額には脂汗が滲んでいた。

「ああ、河津さんじゃないか。何年ぶりかな?」

 対して伊波は僅かに眉をひそめたものの、すぐに笑顔に切り替えた。

 両者極端な表情である。白鳥は二人の顔を交互に見て、ひとまずは河津の肩を叩いた。

「ま、まあ。まずは部屋に入って。良いでしょう?」

 伊波に水を向けると、彼は快く頷いた。

 どうしてか、伊波の笑みは引きつっているように見えた。彼は慎重に河津の動きを目で追っている。夕日に晒された肌には、どっと汗が噴き出したようだ。そしてもう一つ。部屋の中に行李が二人分あることも白鳥は見逃さなかった。

 ただ、それは今は関係ない。重要なのは、どちらもあまり良い気はしていないらしい、ということだ。

 良くない部分に踏みこんだかなと後悔したものの、けれども言ってしまった以上は仕方がない。河津も警戒心たっぷりに――剣の柄からは手を離さなかった――部屋の中に入り、伊波から一番離れたところに腰を下ろした。

 その様子に伊波は苦笑している。

「相変わらずだね、河津さん」

「お前は変わったみたいだな」

 そっけない返答に、伊波がむっと口を尖らせた。彼は手早く剣を組み立て直すと、遠くに見える海原に視線を移した。

「……変わらざるを得なかったんだ。河津さんほど素晴らしい剣客じゃなかったからね」

「辛い修行から逃げたのはお前だろう?」

 伊波は血走った眼光を河津に向けた。そこに滞留する感情は決して明るいものじゃない。

「逃げ出すように追い詰めたのはあなただ」

「俺はお前に期待を掛けていたんだ」

「けれども私は、あなたのご期待にそえない役立たずだった」

 流れるような二人の押収を、白鳥は左右に首を振りながら唖然と見る。

 言葉を交わすうち、どちらも苛立たしさが増したのか、立て膝をついて剣を取った。

「昔から気に食わなかった」

「同意見で良かったよ、伊波。俺もお前が嫌いだ」

 あっという間に殺気だった雰囲気が立ち込めた。どちらも敵を捉えて離さない、血に飢えた獣のような空気がにじみ出している。

 このままでは狭苦しい部屋で斬り合いが始まってしまうだろう。

 白鳥は慌てふためいて二人の間に入った。河津は眉をひそめて正座に戻り、伊波は蔑むように鼻を鳴らした。

「今度の玩具はこいつかい?」

「……同僚だ」

「ふうん。今度は追い詰めて壊さないようにね。……それで、こんな場所まで、私の間抜け面を見るために来たわけかい?」

 伊波は今度こそ柔和な笑みを引っ込めた。露悪的な、片方の口の端を吊り上げるような笑みに切り替えている。

 挑発された河津は僅かながら冷静さを取り戻し、居住まいを正した。

「違う。もちろんな。お前、銀主屋というところで働いているらしいな」

「……ああ、そっちか」

「剣闘士をしている、と言っていた。どういうことだ?」

 伊波はくつくつと笑い、一歩分だけ身を離すようにして河津を見つめた。

「その通りだよ。見世物として戦っているのさ」

「お前……!」

 伊波はぱっと手を上げ、いきり立つ河津の動きを制した。

「どうせ、師匠に習った剣術を悪用するなと言うんだろう? 仕方がないじゃないか。私には何もないんだ」

 まさか、これも奪うのかい? と伊波は試すように悪辣な言葉を放った。

 河津はぐっと息を飲んだ。普段では見ないくらい青ざめている。頬に一筋の汗が伝ったが、それを拭うことさえせず、夕日を背に浴びたかつての知り合いを睨んでいた。

 白鳥は再び二人を交互に見て、溜息をついた。

「あなた、それが犯罪だと分かっていますか?」

「……もちろんだ。銀主屋の主がお前達のところへ行ったんだろう?」

「ええ」

「そうやって同心に話をつけて、お目こぼしをしてもらうのさ。だが、私のところに誘導したということは、酒も女も通用しないと思ったのか、それともあなたのことを知っていたのか……」

 伊波は気色ばんだ様子で河津を見ていた。

 研ぎ澄まされた剣客としての雰囲気がひしひしと伝わる。黄昏を背に負うて影が差すその面上には、恐ろしい覚悟を持つ男の決意が現れていた。

 河津はぐっと息を飲み、視線を落とした。満足感でも得たのか、伊波も息を吐いて肩を落とした。

「あなたに話はない。もしも、何か言いたいのなら銀主屋に来い。今晩から見世物をするからな」

「……お前も出るのか?」

「一番の目玉が出なくてどうする」

 伊波は笑殺し、二人を追い返してしまった。

 河津はそのまま、夢遊病のようにふらふらとどこかに消えた。白鳥の方は暮れゆく日に目をすがめ、そして窓べりに腰かける伊波の姿を見上げた。

 彼も宿の前にいる白鳥に気がついた。先ほどとは打って変わって、穏やかな様子で会釈をして、そのまま部屋の中に戻っていった。

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