闘技場①
辺りは薄暗い闇に包まれていた。人々の熱狂がその黒暗をつんざき、張り詰めていた空気を震わせる。
そこは地下の空間だった。その中央は太い四本の松明で四角形に区切られていて、その周囲を百人ほどの観客が埋めている。手拍子、足拍子、罵声、何でもありだ。
「予想! 予想! 予想するよ!」
「茶はいらんかね。酒もあるよ」
「弁当、弁当はどうだ?」
「煙草はこっちだよ。火も付けますよ」
そんな声が観客の熱気の狭間で聞こえる。
帯のように連なる闇の真っただ中で白鳥は呆然と立ち尽くしていた。中央で燃え盛る松明の熱が、幾重にも増幅されて彼の顔に押し寄せた。男達の汗臭さや怪しげな紫煙の香りもそれほど気にはならない。
(これで良かったんだろうか……)
という疑問が胸中に渦巻くばかりだ。
やがて男達がひときわ大きな歓声を上げた。本日最後の演目、とこの地下の空間を取り仕切る男が声を張り上げた。
「我が銀主屋きっての剣聖、伊波虎次郎だ!」
わっと歓声が上がる。空気を震わせ、白鳥の肌をも粟立たせた。
その音の波は壁にぶつかると激しく四散し、やはり地下の熱を上げたような気がする。今や男達は汗みずくだ。半裸になる者もあった。水や酒を浴び、異臭が漂った。
「対するは市中西部の同心、河津正則!」
うー、と低い唸り声が上がった。地面が揺れ、思わず白鳥は顔をしかめそうになった。
紹介された二人の男は剣を一本握りしめたまま、松明で区切られ、明々と照らされた場所に出てきた。
河津は言わずもがな。相手も三十そこそこというところだ。しかしどちらの肉体も鋼のように鍛え上げられていて、顔つきも精悍そのものである。
両者ともに激しい殺気を放ち、それが観客にも伝播して震えあがらんばかりの興奮が渦を巻いた。
二人は激しく睨みあっていた。まさしく一触即発で、どちらかが動いたら、その瞬間から殺し合いが始まるだろう。
「本当に良かったのかな……」
今度こそ白鳥は呟き、ことの発端を思い出していた……。
その日はうららかな日が差す、暖かい日だった。
定位置に座った白鳥は、思わず、うつらうつらと船を漕いでしまう。それというのも暖かな日和ということに加えて平野がいないという開放感に体が包まれていた。
ついつい転寝をしたくなるのは、普段から彼女の恐怖と緊張に晒されているからだろう。
「あーあ、今日は早く帰って寝ようかな……」
大欠伸をしながら白鳥は体を伸ばし、柔軟体操をする。こんなところを市民に見られたら困るのであるが、生憎、誰かが番所の引き戸を開ける様子はない。
「おい、白鳥、だらけてんじゃねえぞ」
と言っている河津でさえも、手持無沙汰にごろりと横になっている。そのまま酒とつまみも出したら、恐らくは自宅での彼の生態に迫れるだろう。
仕事がないこと、そして平野というたがが外れたことも相まって、二人は怠惰な時間を過ごしていた。
その穏やかな時間を切り裂くように、引き戸がそっと憚るようにして開いた。
(もう少しあとにしてくれ。……厄介事は夜番の連中に行け!)
そう内心で懇願した白鳥は、同じく呆けた顔をした河津と顔を見合わせ、渋面を作る。
外はもう黄昏にかなり近づいているように見えた。空から降る日差しも弱く、朱に染まっていた。
音もなくするりと入ってきたのは、壮年の、四十がらみの男だった。もみあげのところが真っ白で、日に焼けた顔には深いしわがいくつも刻まれている。
その男は深々と卑屈そうに頭を下げた。
「……事件か? 事故か?」
河津がぶっきらぼうに問うた。白鳥は早速調書として使っている縦帳を取り出し、日付を書いた。
「ああ、いえ」
その壮年の男はきっぱりとかぶりを振って、河津正則とはどの男か、と問うた。
「ああ? 俺だ」
髭を撫でつけながら河津はのっそりと起き上がり、男に近づいた。
「左様でございますか。わたくしは流れの見世物小屋を営んでおりまして。全国を回っておるのです。これはその土産でございます」
とか何とか言いながら、男はそっと袖の下から、包装された金を取り出して河津に握らせようとした。
だが、河津は怠惰で情にもろい部分はあるものの、そうした賄賂の類は受け取らない清廉潔白さは持ち合わせている。渡された金を握らず、土間に落とした。重たい音が響き、壮年の男は慌てて金を拾い上げた。
「お気に召していただけませんでしたか……」
「生憎、金には困ってねえからな。お前を逮捕して、悪いことをしてねえか吐かせればいいのか?」
どうやら警戒心を持ったようだった。まあ、初対面の同心に金を渡すような輩だ。ろくでもないに違いない。けれども壮年の男はかぶりを振った。
「いえいえ、わたくしどもは怪しまれる商売ですので。実力のある人にこうして話を通しておくんでございます」
「そうすれば、多少の悪さは見逃してもらえますもんね」
縦帳に書きこんだ日付を消しながら白鳥が呟く。壮年の男は一切表情を変えることなく、そして言葉も否定しなかった。
「まあ、河津様に話を通しておけば、このあとの仕事もやりやすそうだと思った次第であります」
「……俺も随分と舐められたもんだな」
「まあ、そう怒らず。では、もう一つ土産があるのですが、こちらはどうでしょう?」
河津は気もなさそうに鼻を鳴らした。それにもお構いなしに、壮年の男は呟いた。
「伊波虎次郎」
「……何だと?」
河津が顔を上げた。白鳥はその名に心当たりがなかったが、河津の方は目をひんむき、よろよろと土間の方へと降りていく。
裸足であることを咎めたかったものの、河津の背中から発せられる殺気が尋常ではなかったので、白鳥は黙っていた。男はにんまりと笑った。
「おやおや、良かった。こちらは気に入っていただけましたか」
「い、伊波がどうした。何故、その名前を――」
「今はわたくしの銀主屋で剣闘士をしております」
男はにこやかな笑みを浮かべた。そこに薄ら暗い意図がなかったとは言わない……。