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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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平野の初恋④

 翌日、白鳥は実に清々しい気分で目を覚ました。

 腹が鳴ったので急いで身支度をして、朝からやっているうどん屋に向かった。朝一番と言われたからには朝一番だ。同心が言う一番とは、出勤時間に他ならないだろう。

 彼は飯を食い終えると、すぐさま金柳道場に向かった。そこは市中でも屈指の実力派道場だ。市中の中央部にもほど近く、多くの武士が集う場所であった。

 道場の周囲も、程よく栄えた一帯にある。目抜き通りには各種様々な店が立ち並び、他にも寺や武家の屋敷などが連なっている。

 その道場に近づく道すがら、白鳥は普段とは違う雰囲気に気が付いていた。

 同じような方向に歩いている人だかりを見つけたのだ。皆、隆々とした筋肉を有している。一見しただけで恐らく武士だろう、と目星がついた。しかし、武士が朝一番に何の用だろうか。礼服を身につけていて、仕事に行くという感じではないが……。

 疑問を抱えながら歩いていると往来の後方から駕籠が近付いてきた。武装した若い武士が声を上げ、道の真ん中が開けられる。

 同心の仕事で毎日見ている家紋を武士達が掲げている。どうやら神平が乗っているらしい。言わずと知れた平野の父親で、白鳥を地獄の淵に叩き落そうとした男である。

 駕籠は、白鳥のすぐ前で止まった。若い武士がその側面の扉を開けると、中から手が出てくる。白鳥を呼んでいるようだ。彼は首をかしげながら近づき、膝を折った。

 中にいたのはやはり神平だった。にやにや笑っている。

「聞いたか?」

「……何をでしょう?」

「む? お前、静に聞かなかったな? 仕方のない奴め。しかも平服だし」

 という神平は裃を身につけている。白鳥は首をかしげた。

「ええと、僕は平野さんに金柳道場へ来るように命じられただけで……」

「ふん、あれも随分と不親切だな」

 神平が傲然と顎をそびやかせる。駕籠を持つ男達が立ち上がり、白鳥はそのあとについていくことになった。

 道場に近づくほど礼服に身を包んだ連中が多くなる。何か祝い事があるのだろう、と嫌でも察してしまう。そういう意味では、町人然とした自分の姿は目立つ。主にみすぼらしいという意味で。

「……僕、怒られないですよね?」

 駕籠を持ち上げている人足の男達に尋ねた。彼らは苦笑いを浮かべるばかりだ。駕籠に揺られていた神平は低く唸るような声を上げた。

「古葉は強いぞ。しかも怒ると怖い。命があったら、また酒でも飲みに行こうではないか」

 白鳥は恐ろしいものを見るように目をひんむいた。彼が立ち止まっても、駕籠は一切止まらなかった。近くの角を曲がる。礼服の連中も、そっちの方へと向かっていた。

 白鳥は脂汗を掻き、固くなった喉を鳴らしながら、恐る恐る曲がり角から様子を覗きこんだ。

 古葉という男は随分と人望があるらしく、身分の差異もなく色々な人が道場に集まっている。ただ、白鳥のような貧相な格好をした人間は一人もいない。

 人だかりの真ん中で駕籠が止まる。武士達は急いで膝をつき、そこにいる人物が現れると、こうべを垂れた。町人達は膝と頭を地面につけている。

 その異様な光景の中で、ただ一人、仁王立ちをしている人物に目がいった。

 切れ長の鋭い目、造形のくっきりとした美麗な面差し、そして木刀を握りしめ、道着に身を包んだ異様な女だ。

「……あれ、平野さん、か?」

 女は、神平が出てきても全く怯む様子もなく、背筋を伸ばしている。

 半笑いの神平が白鳥の潜んでいる角を指差していた。女がそちらを睥睨する。怜悧な眼光が煌めき、射抜かれた白鳥は渋々陰から身を出した。

「あの人、絶対に楽しんでいるよな……」

 白鳥は呆れ顔を作った。にやにや笑っている神平は、娘の肩を叩いて、さっさと道場の敷地に入ってしまう。

 近付くほどに分かるのは、平野が気合の入った格好をしているということだ。道着はたすき掛けされて袖が邪魔にならないようになっているし、鉢巻きまで持参している。彼女は白鳥の姿を上から下まで見ると、生真面目に頷いた。

「……お互い、結婚式に出る格好じゃありませんね」

 金柳道場の入口には、結婚式会場、と書かれた看板が建て掛けられている。道行く人達は二人の様子に顔をしかめていた。

「ああ、行くぞ」

 話に応じる余裕もないのか、平野はさっさと踵を返した。彼女の迫力を前に、礼服に身を包んだ武士達が蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。

 平野は何の躊躇いもなく道場の門をくぐると、正面にそびえる稽古場をぐるりと回って、敷地の裏手に向かった。

 そこまで来ると喧騒が収まりつつあった。ひと気は全くなく、家族――要するに古葉とその奥さんの為の私的な空間として確保されていることが分かった。

「あの、何をする気なんです?」

 白鳥は青ざめた顔で怖々と尋ねた。平野は冷淡に、されども緊張した様子で、彼を睨んだ。その強張った様子に、思わず白鳥は手を伸ばしていた。

「……手、握ります?」

「は?」

 平野の蒼白の顔に困惑が広がった。

「緊張している時は手を握ると良いって……誰かが言っていましたよ。断じて僕が握りたがっているわけじゃありませんからね」

 そんな言い訳がましいことをぶつくさと呟いていると、平野は汗ばんだ自分の手を顧み、白鳥の手を取った。その思わぬ冷たさに彼は声を上げ、反対側の手も自分の手で包んで温めてやった。

「まるで討ち入り前の決死隊みたいですねえ」

 見どころもない砂利の通路を歩きながら、しみじみと呟く。平野は腰に木刀を帯びているし、今や鉢巻きもして気合いたっぷりだ。しかも顔は緊張しすぎていつもの三割増しで怖い。通りがかった下男が尻もちをつくほどの形相である。

 しばらく平野を温め、彼女の顔色に血の気が戻ってきたのを見届けて手を離した。

「……すまないな」

 と平野の口から殊勝な言葉がまろび出て、白鳥は顔を引きつらせた。

 彼女が何をする気かは知らないが、ろくでもないことだろうと直感はしている。

 ただ、真面目な彼女が、結婚式という場で形式にそぐわないことをやろうというのだ。重要なことに違いあるまい。

「で、何でそんな気合いの入った格好を?」

 歩きながら白鳥が問うた。

 道場の裏手も稽古をするためか、砂利が敷かれているだけだ。殺風景で鍛錬には最適だ。

 白鳥の通っている道場など、師範の奥方がやる家庭菜園や針子仕事の作業場なんかが併設されている。この前は道場の中にまで針子の見習いがやってきて、白鳥達が剣の稽古をする横で仕事をしていたくらいだ。

「……古葉という男は、かつて父の下で働いていた。私に剣の基本を教えてくれた人だ」

 初恋はそこから来たんですか、とは口が裂けても聞けない。白鳥は、唇を引き結んで厳しい表情を浮かべる上司を横目で見た。

「で、今日はそのお礼まいり?」

「まあ、そんなところだな。一度も勝ったことがないんだ。今日くらいは勝たせてくれるかも知れん、と思っただけだ」

 という平野の表情は、やっぱり一片の曇りもなく緊張と闘気と殺気に満ちていた。

 その剣呑な様子に下男が引き返していき、古葉という男が身支度を整えているらしい小さな納屋に飛び込んだ。

 そこでちょっとした騒動が起こっている。恐らくは木刀を持った女が襲撃に来た、とでも報告されたのだろう。

 肌着に剣一本を持った少壮気鋭たる男が姿を現した。

 髷が微かに乱れ、肌着の胸元もはだけてしまっているが、それが返って男の隆々たる肉体を象徴している。

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