平野の初恋③
「ねえ、河津さん?」
昼時になり、商家の連なる豆河通りはいつもの喧騒を取り戻していた。
押しあいへしあいをしながら人々は店先を回遊する。何をそんなに買うものがあるのか、と思わず悪態をつきたくなるような混雑が眼前では繰り広げられていた。
白鳥の前を行く河津は、汗みずくになりながら、ともすれば足を止めがちな男達を急かして警邏を進めた。
「ああ? 何だ? 犯罪者か?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが、金柳道場の古葉という男を知っていますか?」
河津が足を止めた。
白鳥はその背中に鼻をぶつけて首を振り、迷惑そうに脇を抜けていく人々を冷めた目で見つめた。河津の方は恐る恐る振り返り、その顔を蒼白に染めていた。
「なんだと?」
「金柳道場の古葉です。……ああ、それよりも前を見て、進んでください」
「ちっ! おい、どけ、同心が通るぞ」
河津は荒っぽく男達を掻きわけた。その後ろに不満げな声が浴びせかけられたものの、彼は一向に気にする様子もなく、さっさと一番混み合う地帯を抜けた。
豆河通りを一本隔てたところで二人は息をついた。その辺りになると、幾分か人込みも薄れる。
河津は鋭い眼光を白鳥に向けていた。向けられた方は肩をすくめ、平野と、その古葉という男の間にあるものが、ただれた関係でないことを心の底から祈った。
「……誰から聞いた?」
往来のど真ん中で二人の男が睨みあっている光景は、いささか人の注目を集める。白鳥は咳払いをして、歩くよう促し、河津もそれを了承して踵を返した。
「神平さんからです」
河津は目をぐるりと回した。まるで窺うように白鳥の顔を覗きこんだ。
「……お嬢には聞いたのか?」
「いえ、そんな雰囲気じゃなかったので」
河津は大仰に胸をなでおろすしぐさをして、肩を落とした。尖らせた口からついて出るのは、かつての主に対する悪態であった。
「何考えてんだ、あの人も」
「で、その古葉ってのは?」
河津は散々悩んだ上で、白鳥に顔を近付けるようにと手招きをした。白鳥はちょっとだけ背延びをして、河津に耳を寄せる。
「……お嬢の初恋の相手だ」
「は?」
と言いながら河津を見る。彼は諦観の様子で肩を落とした。顔色は優れないようだ。
「本人は否定するがな。恋文だの夜食だのと、まだ可愛かった頃のお嬢は散々世話を焼いてなあ……」
「まだ可愛かった……」
「今じゃ可愛げの欠片もねえ。ともかくだ。奴に思い人がいると分かった時は、そりゃもう荒れたぞ。神平家がひっくりかえるくらいに。聞かんで良かったな。死んでたぞ」
白鳥の体には安堵感が広がった。どっと疲れもしみだしてきて、神平の口車に乗せられなくて良かった、と胸をなでおろした。
「……あの人、何考えてんですか」
白鳥は急に吹き出した汗を拭った。
もしもこんなことを平野に問うていたとしたら……。
あの古ぼけた木刀が唸っていたかもしれない。それは恐らく死を意味するはずだ。そうでなくとも、肉体と精神に多大な傷が付くことだけは避けられない。
「で、何で古葉が?」
「分からないんですよねえ。神平さんはにやにやしていました」
「……ろくでもねえことだな。俺は何も聞かなかったことにする」
それから二人とも暗黙のうちに、この話題は二度と出さないことを誓い合い、警邏を手早く済ませた。
番所に戻ってくると、他の番隊が入れ替わりで警邏に出ていった。河津は汗を流すために裏庭の方に回り、白鳥は気の重さを感じながら、何とか控室に向かった。
「入ります」
と一声を掛けてから引き戸を開ける。途端にざっと風が吹き、控室の中を満たしていた光に顔を照らされる。白鳥は咄嗟に目をすがめた。
「あの、警邏が終わりましたので――」
眩しく、視界が不明瞭だった。白っぽい視界の端っこの方で小さな影が一つ動き、白鳥の前に立った。彼の顔に影が差し、それでやっと人心地つく。見上げると影を帯びた平野の冷厳な面差しとかち合った。
「あ、番所に戻ってきました」
「ああ」
平野は怜悧な鋭い目つきだった。でも、やっぱりその顔には元気がない。古葉という男が関わっているのか? 胸中を疑問がぐるぐると渦巻いたが、それを問い詰めるような胆力は備わっていない。
白鳥は取り繕うような咳払いをして、視線を逸らした。
「何か困っていることがありましたら、相談くらいには乗りますから」
白鳥はそう呟き、膝に手を置いてゆっくりと立ち上がろうとした。
だが、その肩を平野が押さえ、もう一度座らせる。
何かあったのだろうか、と顔を上げようとするも、平野の冷たい手が顎を掴み、それを許してくれなかった。畢竟、白鳥は彼女のほっそりとした足の指に視線を落とす羽目になった。
「明日、お前は非番だったな?」
「え? ええ。平野さんもでしょ?」
一応、同心にも休みは与えられている。番隊は全て同じ日に休日を与えられているから、白鳥が休みということは平野も河津も休みということに他ならない。
「ああ」
と呟いた平野の手に力がこもった。けれどもそれはいつものように痛めつけるのではなく、白鳥の少しだけ頼りない顎先を、やわやわと撫でる、さながら犬のしつけをしている時のような優しい手並みであった。
その感覚に白鳥は鼻を鳴らした。平野は腹の底から一つ息を吐き、そっと呟いた。
「明日、朝一番に金柳道場に来い」
彼女の言には有無を言わせぬ厳格さが伴っていた。
何故行かなけりゃならないのか、それを問う余白はどこにもないようだ。
白鳥が言葉もなく頷くと、彼女はそっと自分の身を寄せ、彼の頭を抱きしめた。
その柔らかくも温かな感触と匂いに包まれ、はっと息を止める。彼女はすぐに離れて、白鳥の鼻先で引き戸をぴしゃりと閉めた。
控室の前で膝を折っていた白鳥は、それからしばらく――彼女の温かさと残り香が消えてしまうまで――そうしていた。土間の方に戻ってくると、河津が怖いものを見るような顔で窺っていた。
その日は、ぼうっと顔を赤らめながら、浮ついた気分で仕事を進めた。
明日は一日休みの為、仕事は山積していた。それらを残業もなしに終えてしまうと、河津の誘いも無視して湯浴みに向かい、そのまま家に帰って床についた。