平野の初恋①
今、白鳥はざわめく薄暗い酒場の角打ちの区画で茶碗を煽っていた。中に入っていた透明な酒が喉を抜け、腹に落ち、体をかっと燃え上がらせる。あっという間に顔が赤くなり、体が火照った。
それでも体にまとわりついた緊張感は拭えない。彼は隣をちらと見やり、黙って同じように茶碗を傾けている人物の姿を捉える。
その男は大衆的な店に来るようなことがないのか、興味深げに店内を見ていた。その横顔は好奇心に満ち、どことなく目をまん丸にひんむいた時の女上司と似ている気がする。
「あの、神平さん……いえ、様?」
「さん、で結構だ」
隣で飲んでいた神平――平野の父親だ――は柔和な笑みを浮かべ、茶碗の中身を煽った。彼は二人の間に置かれていた徳利を取ると、白鳥の方に向けた。
「もう一杯飲め」
再び徳利の中身が綺麗になり、神平は何の躊躇いもなく次の一本を所望した。
どうしてこうなったのか。それは仕事帰りの、ひと気の薄い長屋の連なる通りを歩いていたところまで遡らなければならない。
この日、白鳥を含めた第二八番隊は、とある事件を解決した。
といっても、ただの泥棒事件だ。いつぞやの猫小僧なんかとは違い、ただの小悪党である。老人が一人でいるところを見計らって家に侵入し、金目のものを奪うという卑劣極まりない事件だ。
その犯人をおびき出すために嘘の情報を流し、彼らは一晩中、押し入れの中に隠れて泥棒が来るのを待ったという次第である。
捕まえたのが朝のことで、日中は通常の職務に引き戻されてしまった。徹夜のあとでの仕事は堪えるものだ。白鳥も、河津も、もちろん上司である平野も、疲れ切って沈んだ顔をしていた。つい、泥棒に対する取り調べもきつくなってしまったのである。
そんなこんなで激動の一日を終えた夕暮れ時、白鳥は大欠伸をしながら、上司と同僚が帰り支度をするのを待っていた。
「……ん?」
何気なく女上司を見ていると、日中では感じられなかった違和が、彼の胸を鉤爪のようなもので引っ掻いた。
「平野さん、なんか落ち込んでません?」
それはふとした天啓のようなものだ。夜番の同心達に日中の報告をし、下駄を足に引っ掛けるまでの僅かな間に見出した感覚であった。
「いや、落ち込んでいないが?」
と返しはしたものの、疲労感に満たされた平野の面上は、ほんの僅かな憂いを伴っている。これは白鳥の観察眼が優れているから見抜けたものであり、その証左として、もう一人、河津の方は全く気付いていなかった。
「まっさか。お嬢が落ち込むわけないだろう」
彼は気の良い笑い声を上げて白鳥の肩を叩いた。その様子に、平野は張り詰めていた空気を体外に吐き出して、ぎこちない笑みと共に呟いた。
「その通りだ。お前の気のせいだろう」
「そうかなあ……」
まるで煙に巻かれたみたいだ。何だか丸まっている平野の背中を見送り、一杯やろうとしつこい同僚を丸めこんで帰途についた。
頭上に広がる欄干を見上げる。それにしても引っかかるのは、平野の落ち込みようである。彼女は話題を避けたが、やっぱり気がかりがあるように見えてならなかった。
悶々と考えながら自宅のある見慣れた通りまで戻ってきた。夜ということもあり、犬か泥棒くらいしか外を歩いていない。遠くの花街の明かりが闇を微かに紛らわせるが、長屋近くには全く関係のないことだった。
長屋が連なる、薄暗い場所に戻ってきた。家々から漏れる明かりは少ない。油代をけちる為に日が暮れると共に寝いる家庭が多いのだ。
白鳥も疲れていた。今日は夜飯も食わずに布団に入ろう、と思っていたわけだ。そんな決意を秘めた若者の行く手を遮るように、完全武装した男が五人、立ちふさがった。
「え?」
その剣呑な様子に驚いた白鳥は慌てて踵を返したものの、後ろからも五人、若い男達が近付いてきた。彼は不覚にも前後を塞がれ、何が何やら分からないうちに拉致された。
叫んでしまおうかと思ったが、あっという間に駕籠に押し込められた。
中から見る限り、逃げ場はなかった。武装した男達が前後左右を固めていた。
そのうち、駕籠の柔らかで適度な揺れにやられて、白鳥は寝息を立ててしまった。
呑気と思われるかもしれないが、押し込められる時、見覚えのある若者の姿を見つけ、これから誰に引きあわされるのか、大体察したというのが大きな要因である。
程なくして駕籠が止まると、白鳥は寝ぼけ眼を擦った。
連れて来られた場所は、長屋からそう離れていないうらぶれた酒場だった。地元の、しかもあまり柄の良くない連中が入るような店だ。
若者の一人が白鳥を、店の最奥にある角打ちの区画へと押し込んだ。もちろん店内に客はいる。立ちながら酒を飲み、煮物を食い、友人と語らっている。厨房から立ち込める熱気が、男達をますます燃え上がらせた。
白鳥は予想と違う場所に連れて来られて面食らったものの、目当ての人物を見つけると恐る恐る近付いた。武装した若者達は、そこまでは行かないようである。たたらを踏んで振り返ると、彼らは何度も頷き、白鳥に前へと進むよう無言で命じていた。
そこにいたのは神平だ。平野の父親である。今は町奉行などというものをやっており、町奉行所預かりの同心である白鳥からすれば、直属の、一番偉い上司ということになる。
「おお、白鳥君」
神平は、すでに酒を何杯か飲んでいるようだった。
まだ中身の入っている茶碗を彼に差し出し、一杯やるように命じた。
そう言われては致しかたない。白鳥は勢いよく煽り、彼の隣についた。神平はちゃっかり新しい茶碗を要求し、あてとして焼き魚も注文してくれた。
二人は新しい徳利を一本空けるまで、黙って飲み続けたわけだ。