憧憬の決着⑥
「あの、平野さん」
翌日、白鳥は深刻そうな顔をして上司に声を掛けた。
番所の中では、もうほとんど直木丞之助を犯人として、捜査を進める雰囲気が出来あがっている。河津でさえ、白鳥に気を使いながらも、その意見に反論はしない様子だった。
現場からは凶器が見つかっておらず、直木を除いた全ての剣術経験者――これは留吉の用心棒もそうだし、泰介の方もそうだ――の剣の切り口と合致しなかったという。
「何だ?」
平野は番所の土間にある、一段高くなった床に腰を下ろしていた。白鳥を見る目は冷めきっている。
「もう一度、泰介を調べさせては貰えませんか?」
「調べてどうする?」
「彼も、劇場の奥に入ることが出来たみたいなんです。留吉を殺す機会もあったかもしれません」
「その情報は誰から?」
「直木さんからです」
平野は小さくかぶりを振った。容疑者から得られた情報など、ろくでもない、とでも言いたいのだろうか。むっとした白鳥の雰囲気を察してか、河津が間に入った。
「あの、俺達だけでやりますから。ちょっとばかし、時間をいただけませんかね?」
またしても冷淡な瞳が二人を睨んだ。平野は首を振り、好きにしろ、と呟いた。
二人は番所の外に出た。すぐさま港の泰介の倉庫へと向かう。朝早くだというのに、すでに仕事が始まっていた。ゴロツキ達が眠たげに荷物を運び、店先に立った泰介が声を張り上げて仕事を急かしている。
「おお」
潮騒や、空を飛ぶカモメやトンビの鳴き声に紛れて、泰介が声を上げた。彼は冷淡な目で二人を見ていた。
白鳥はすぐに近付き、彼に問うた。
「直木さんも、ここの客だったみたいですね」
「……ああ、そうだな。美人の奥さんの為に、随分と苦労した」
「留吉さんにも随分と金を貸していた」
「その通りだ。あの売れない劇場を維持するのは大変だろうからな」
白鳥は目をすがめて言った。
「留吉さんが死んだら、あの劇場はどうなるんです?」
「……抵当に入っているから、俺達の物だ」
泰介は、何を馬鹿げたことを、と言っているようだった。
「なら、彼が亡くなると好都合です」
「……本当にそう思うのか? 白鳥屋の坊ちゃん」
「え?」
泰介は、ちらちらと自分達の方を窺って手を休めている部下達に、どやしつけるような大声を放ち、それから咳払いをして、白鳥の方に向き直った。
「あの劇場を貰って、本当に俺達が稼げると思うか?」
「それは……」
「不可能だ。潰して建物を建てたって採算なんか取れっこない。留吉は、ああ見えて経営の手腕だけはあった。奴を生かしておいた方が、よっぽど儲かっただろう」
熱くなり過ぎた頭を、白鳥は何度も振った。
その様子を泰介は厳めしい顔で見つめていた。やがて用心棒の一人に、ある資料を持って来させた。それは留吉の劇場にある舞台道具の目録と今度の劇の台本であった。
「ここまでしねえと、奴は働かないわけだ。飯の種を売るぞ、と脅しをかける」
「……これは?」
泰介は、幾分か話しづらそうにしたが、けれども意を決して呟いた。
「俺はこう思うんだ。人を殺す時、一番疑われない方法は何だろう、って。他人の武器を使うのが一番いい。……次にいいのは偶然を装うことだ」
「偶然?」
「特別に凶器を用意したわけじゃないってことさ」
「その場にある武器を使うってことですか?」
「奴の劇場の道具は、全部本物だ。大道具も、鎧みたいな身に付ける衣装も。もちろん刀だって。用意できるんじゃないか?」
「事前に研いで武器を用意する、か……」
泰介は肩をすくめた。その二つの資料を白鳥に渡し、倉庫から追い出してしまった。
白鳥は自分の左手を見下ろし、強く握りしめた。そんなことはありえない、と言い切れるかどうか、自信はなかった。
貰った資料をぱらぱらとめくる。舞台道具の目録は、あの壮年の役者に見せられたのと全く変わらない。
けれども目を引いたのは台本の方だった。これまで、ずっと目を逸らし続けてきたものだ。もしかしたら公演されるかもしれないという希望も持っていたから。
しかしながら白鳥は、その禁断の本を開いた。その瞬間に喉を鳴らした。
舞台道具の目録に書いてあった刀の本数は六本。
対してこの劇に必要な刀の数は七本。物語のあらすじは直木丞之助が六人の敵を打ち倒すというものだ。一番の見せ所は、橋の上で六人の敵を相手にする大立ち回りである。
その時、舞台上に存在する刀は七本。足りない一本は……。
白鳥はもう一度、強く左手を握りしめた。
二人は劇場に向かった。同心達の姿はまだない。白鳥は決然とした面持ちで中に入った。
段々になった桟敷の観客席があり、数段低い所に舞台が臨める。その舞台上では、あの殺害現場となった橋がまだ掛けられたままだった。
白鳥と河津が段差を降りていくと舞台袖から二人の男が現れた。
心臓が高く跳ねた。一人は直木丞之助だ。もう一人は壮年の役者のようだった。二人とも化粧を施し、衣装に身を包んでいる。
彼らはいくつか言葉を交わし、腰に帯びた剣を抜き払った。舞台の上だというのに、本当に命の取りあいをするかのような、鬼気迫る攻防が展開される。
後ろを歩いていた河津も、思わず感嘆の声を上げていた。白鳥は冷たくなった手を強く握りしめ、その舞台をじっと見つめた。
やがて両者が鍔迫り合いから身を離した。橋の上に立つ。直木丞之助が艶やかな声を朗々と上げた。
「貴殿、留吉よ。何ゆえ我を謀るのか」
すると壮年の役者が応じた。
「某、もう限界にござる。精も根も尽き果てて、頼みの才も枯れ果てて、生きる術を全て失い申した。かくなる上は最期の大仕事、務めさせていただきたい」
二人は再び剣を交える。本物の刀身がぶつかりあい、舞台上が一瞬だけ閃光に満ちた。その光に直木達の面上が照らされた。
「さて、何をする気であるか?」
という直木の問いに対して、壮年の役者はこう応じた。
「貴殿、直木丞之助を亡き者と致し、これを若き役者に取り換える。かつての名優が死んだとなれば、話題も起こるというものであろう?」
白鳥と河津は顔を見合わせた。
そのうち舞台の方が騒がしくなった。五人ばかりの役者が出てきて、壮年の役者の両手を抑えた。直木は剣を大上段に構え直し、客席に顔を向けた。
「拙者、ただで死ぬわけにはまいりませぬ。舞台の上で死ぬことが本望と言いましても、殺されることとは違いまする」
そこで直木は二度、舞台を踏みならした。役者達が大声を張り上げる。留吉役の壮年の役者は剣を打ち捨てた。
「さあ、斬れぃ。生の呪縛を解く術は、死を以って以外にはないのだから」
直木は大声を振り絞って、剣を最上段から振り下ろした。
ぱっと赤い液体が飛び、彼の体には赤褐色のまだら模様が出来あがった。斬られた方は橋の上で倒れ込み、それを抱えて、役者達は舞台袖に消えた。
ただ一人、立ちつくした直木丞之助は鋭い視線を白鳥に向けた。その顔はまさしく、かつて市中を熱狂の渦に巻き込んだ役者の迫力であった。
「昨日、君が手を切った時、もう逃れられぬと思った」
白鳥は震える体を叱咤しながら、何とか段差を降りた。河津もそのあとに続く。
「あの日、留吉は私を殺そうとした。それを他の役者達と共に防ぎ、逆に私が殺したのだ」
「……その刀を使って?」
「そうだ。そのあと私達は別れた。疑いを分散するために。けれどもそれは失敗だった」
「宿に寄ったのは、刀を置く為ですか?」
直木が決然と頷いた。一切の自己陶酔も垣間見せず、白鳥を真っ直ぐに射抜いていた。
白鳥の面上は濡れていた。まさか、かつての英雄が、このような形で手を赤く染めていたとは思わなかったからだ。かつて憧れた小道具が人殺しの凶器になっているとは考えもしなかった。
「舞台に上がれ、白鳥君」
直木は剣を持っている。白鳥は恐る恐る舞台に登り、橋に足を掛けた。あとに続こうとする河津を押しとどめた。眼前には、かつて憧れた男がいる。
直木が剣を構えた。白鳥も慌てて抜刀する。激しく打ち合ったのは一度だけであった。何十年と研鑚を積み続けた役者の腕前は、恐らく武士のそれと遜色なかったであろう。弾かれた剣は客席の方に転がってしまった。
直木は切っ先を白鳥に突きつけ、そっと呟いた。
「すまなかった」
その直後、他の同心達が劇場になだれ込んだ。直木は剣を収めると、それを白鳥に預けた。
彼はそのまま逮捕され、縄で縛られて外に出た。他の役者達もそれぞれ同様の憂き目にあった。何人もの男達が番所へと引き立てられていく。
平野は、悄然とする白鳥を一瞥したものの、何も言わずに劇場を出ていく。ただ一人、白鳥だけが舞台の上で立ちつくしていた。
結局、河津に促されるまで動けなかった。彼らが外に出た時、南中まで日が昇りきっていた。むっと来るような熱さと豆河通りの喧騒とが押し寄せる。
通りの奥の方から若い女がやってきた。直木の妻だった。彼女はまだ何も知らないのだ。片手にチラシを持ち、艶然とした表情を浮かべた。
白鳥の前に来ると軽く肩を弾ませた。息を整え、輝くような笑みを向け、チラシを手渡してくれた。
「これ、昨日の――」
という彼女の肩を掴む。白鳥に言葉はなかった。ただ、しとどに涙を流し、うなだれるしか出来なかった……。