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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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憧憬の決着⑤

「やあ」

 振り返った先にいたのは直木だった。その頑強な体は少しだけ汗ばんでいる。どうやら稽古や鍛錬を終えたあとであるらしい。

「……あ、どうも」

 白鳥は憔悴した面持ちで頭を下げた。直木は、いつも舞台の上で見るような、さっぱりとした笑みを浮かべていた。

 顔を上げた途端、白鳥は呆気に取られた。壮年に足を掛けたといえども、あの当時の子供が憧れた直木丞之助その人が目の前にいる。暗がりの中、宿から漏れる光に面上を照らされている。

「何かあったのかい?」

 彼は気の良さそうな顔で覗きこんでいた。白鳥はギュッと目を瞑り、首を横に振った。

「そうか……む、それは私の公演のチラシだな」

 直木の声は優しく、そしてどこまでも慈愛に満ちていた。正義を尊び、悪を葬る。それは舞台上のまやかしだ、と大人達は口を揃えて言った。

「ふふ……時々、これを持っている人を見る。身が引き締まる思いだ……」

 直木はしみじみと呟いていた。

 その声を聞きつつ、白鳥は内心で大人達に反論した。本心を偽ることがまやかしだというならば、それをさらけ出して生きている人が、一体どれほどいるのか。もし現実でも本心を偽っているのだとしたら、それは劇と同じようなまやかしではないのか。

 同じまやかしならば、自分の信じた物を守った方がいい。

 白鳥は目を見開いた。眼前では、直木がやっぱり優しげに目を細めている。それは舞台で見るのとは違う、どことなく柔らかで、些細な表情の変化だった。

「君、時間はあるか?」

「え?」

「君くらいの年齢の子だろうな。私に熱中してくれたのは。どうだ? 酒でも飲みながら、少し話をしないか?」

 そんな提案を断る理由は何もない。白鳥は決然と頷き、直木は宿の暖簾をくぐった。

 直木の部屋は一階の、しかも厨房に近いところにあった。六畳間で押し入れすらなく、床の間に着替えなどを詰めた行李が置かれているばかりだ。

 部屋に入ってすぐ白鳥は動きを止めた。

 そこに見慣れない女が一人、座って本を読んでいたからだ。歳は二十代の後半というところだろう。四十に足を掛けようかという直木と比べると歳が離れているように思えた。

 彼女は白鳥と直木を見て、楚々とした笑みを浮かべた。

「妻だ。こちらは白鳥君。彼と話があるから、少し席を外してくれないか?」

 直木の妻はまたしても柔らかく頷き、流麗な仕草で音もなく立ち上がる。その動きに白鳥は心当たりがあった。直木の方を見ると、彼は苦笑いをしていた。

「うん、彼女は遊女だった」

「はあ」

 直木の舞台でも、もちろん恋模様が描かれることはあったが、役柄上の彼が恋に落ちるのは、大抵、どこかの御姫様とか、正体不明の女剣士とかだった。

 やっぱり現実と劇は違うな、と少しだけ哀愁を覚える。直木は苦笑をしながら行李の中を漁っていた。

「惚れ込んでね。どうしてもと頭を下げたんだ」

「じゃあ、身請けをしたんですか?」

「うん。それで随分と借金をしてね。今でも返さなけりゃあならない」

「だから劇を?」

 直木は手を止め、ちらと白鳥を見やった。

「それは違うな。この前も言った通り、私は自分の劇を観客に見てもらいたいんだ。それが出来るなら、少しくらいの損失は受け入れるとも」

「……そうですか。あの、失礼なことだとは思いますが、どこから借金を?」

 直木は、そこでも手を止めた。僅かな沈黙がある。

 躊躇いがちなノックの音が聞こえて、これ幸いにと直木が応じた。

 彼の妻が大きな徳利と茶碗を二つ、それにいくらかの肴を持って現れた。彼女は楚々とした仕草で跪くと、それぞれの茶碗を白濁した液体で満たした。

「それじゃあ」

 と、二人の間にある沈黙に気が付かない様子で、妻はいなくなった。

 その様子に二人はほっと胸をなでおろした。話題を変えようと白鳥が口を開きかけた一瞬を見計らったのか、直木はしわの刻まれた笑みを浮かべて言った。

「泰介という男だ」

「……泰介さん?」

「ああ、留吉さんにも金を貸していたらしいな。舞台の道具なんかを見て回って、どれが売れそうか、値踏みをすることもあった」

「はあ」

「あの劇場は、私が初めて役者として出演した時の場所でね。再出発をするには、あそこが一番だと思ったんだよ」

 そう言いつつ、直木は再び行李の中を漁り、いくつかの舞台衣装と小道具を見せてくれた。それは古ぼけていて、傷も付いていたが、かつて直木丞之助が使っていた舞台道具である。

「これなんか、君は良いんじゃないか?」

 と言って見せてくれたのは直木丞之助が愛用している刀であった。今度の劇でも使うのだという。

白鳥の頭には一気に血が上った。震える手でそれを掴み、ゆっくりと抜いた。

「あっ」

 鯉口から刀身の根元が鞘から出てくる。

 白鳥の手に鋭い痛みが走った。見ると左手にうっすらと傷が付いている。直木は慌てた様子で手拭いを引き裂き、白鳥の手に巻き付けた。

「あまり剣の扱いに慣れていないな?」

「……はは、申し訳ありません。商人の次男坊なもので」

「君のを見せてみろ」

 直木が手を伸ばしたので、白鳥は、おずおずと自分の剣を渡した。彼はそれをこともなく抜き払い、行燈の光に照らした。

「全く手入れがされていないな。最低限、錆がない程度だ」

 憧れの人にそう言われて、何だか気恥ずかしい。白鳥は微妙そうな笑みを浮かべ、自分の後頭部を叩いた。

「え、ええ。そういう荒事は他人任せなものでして」

「そうか。まあ、私もそうだった。直木丞之助として名が売れなければ、きっと剣の修業はしなかっただろう」

「じゃあ、役者になった頃は?」

「素人も同然だ。あの舞台に立っていた頃は剣なんか握ったこともなかった。だが、徐々に観客が増えるうち、より良い物を見せたいと考えて、修行を始めたんだ」

 何年も続けるとは思わなかったがな、と彼は恥ずかしそうにはにかみ、白鳥に剣を返した。

「君もそのうち、分かるようになるさ。剣も、女もな」

「はあ、そういうものですか?」

「ああ。君くらいの頃には、やっぱり私も分からなかった。この歳になってからだな。素直にあれを愛おしいと思うようになった。君にもいずれ、君の憶病な部分を認めてくれる人が現れるだろう。それを手放してはいけないぞ」

 直木は、そこまで呟いて、茶碗の中身を飲みほしてしまうと、やっぱり唐竹を割ったような笑みを浮かべた。

「さあ、堅苦しい話はここまでにしよう。この衣装を見てくれ――」

 夜はそうして更けていった。直木の口数が減ると、自然と白鳥が話題を振る。

「今は、こうして一人で飲むことが多いんですか?」

 白鳥はそれほど酒に強い方じゃないが、左手に痛みが走り、酔うに酔えなかった。

「ああ、ああ、どうだろうな。……よっぽどのことがなけりゃあ、一緒に飲むさ」

「事件の日は?」

 直木は随分と酔っているようだった。畳の上にぐったりと横たわり、不明瞭な言葉を発している。顔も赤い。大きな徳利に入っていたうちの七割は彼の腹に収まってしまった。

 結局、彼はそのまま寝息を立てた。白鳥は溜息をつき、晩酌の道具を片付けた。

 部屋から出るとすぐのところに、彼の妻がいた。相変わらず清楚という言葉がよく似合う瓜実顔だ。花街でも名の売れた遊女だったに違いない。

 白鳥が会釈をすると、彼女は着物の袖で口元を隠して笑った。

「良かった。最近、考え込むことが多くて。よろしかったら、今度の劇、見に来てくださいね。……チラシを差し上げたいのですけど、もう配り終えてしまって」

「ええ、もちろん。今度、貰いますよ」

 もう持っているとは言えそうになかった。白鳥は腹をさすり、冷たい夜の中を帰途についた。

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