憧憬の決着②
一行は、舞台袖に移された留吉の亡骸を見分した。すでに医師が到着していて、惚れ惚れとした顔で傷口を見ている。
「どうだ?」
と平野が尋ねる。彼は振り返り、悲しげな顔をする三人の同心と、呆れた表情の河津に怪訝な顔をした。
「傷口は一つだ。よっぽどの腕前だな。河津でもこれほど上手くは斬れないかもしれない。躊躇いを捨てて、決然と剣を振り下ろさなけりゃならん」
その言葉に河津がむっとした。
「いや、俺ならば、いつでも出来るぞ」
「ほお……相手が平野でもか?」
河津は途端に苦々しい顔をし、消え入りそうな声で、それは無理だ、と呟いた。
「ともかく、これをやった奴は相当な恨みがある。こいつを殺すのもやむなし、と思うほどに。あとは、腕や足なんかに掴まれたような跡が残っているくらいかな」
「……誰かに押さえつけられたってことか?」
河津が尋ねると、医師は肩をすくめた。そこまでは分からないのだという。
白鳥以外の三人は静かに頷いた。白鳥だけは憤然と肩を怒らせ、留吉の死体の脇を抜けて裏手に向かった。そこには楽屋がある。稽古に来ていた役者達が困惑した表情で待機していた。
彼はざっとその中を見渡した。かつて憧れた英雄がそこにいるはずなのだ。
「……あの、直木丞之助さんは?」
どうしても見つからず、脇を通り抜けようとした役者の一人に尋ねた。彼は苦笑をして、一番奥にいる、とびきり渋みのある秀麗な男を指差した。
「あれだよ」
と言われて白鳥は視線を向けた。そして見た瞬間に、ちょっとだけがっかりしている自分がいることに気が付き、自己嫌悪に陥った。
十年も経っていれば、人は変わるものだ。直木丞之助だって同様である。自分の中に息づく彼よりも、やっぱり十年分は老けて、しわが深く刻まれていた。
「ありがとうございます」
それでも、やっぱり感情は抑えきれなかった。
弾けるようにして彼の元へ向かい、深々と頭を下げた。直木はその様子に目を細めていたが、腰にぶら下げた印籠を見ると僅かに表情を歪ませた。
「何か、御用かな?」
その声は衰えなく、舞台の上から聞こえた、さながら遠雷の如き、低く唸るような声である。白鳥はちょっとだけ頬を赤らめて頷いた。
「え、ええ」
懐に手を伸ばすが、その手を平野が掴んで抑え、耳元で低く、それでいて甘い熱さを伴った声を発した。
「仕事に集中しろ」
恐る恐る見下ろすと、彼女も僅かに口惜しさを滲ませていた。眉間にはいつも以上にしわが寄り、自重を促している。白鳥は小さく頷き、大きく一つ息を吐いて、直木を見つめた。
「留吉さんの件で、少しお話を聞きたいんです」
その言葉に直木が怪訝な顔をした。
「私だけに、か?」
「いいえ、ここにいる全員です。一番目があなただったというだけ」
直木はくつくつと笑い、それは光栄なことだ、と呟いた。
この直木丞之助という男が、舞台で見るのと同じくらい良い男なのだと行動の端々で分かった。
楽屋から出て別の場所で聴取をする際も、不安がる役者や裏方の人間を励ましたり、ちょっとした段差を見つけては全員に気をつけるように告げたり、とにかく周囲が驚くほど気遣いが出来た。
彼らがやってきたのは舞台裏の通路だった。小さな劇場だから、楽屋が一つしかなかったのだ。舞台上の書き割りの裏側を横目に白鳥が話を切り出した。
「留吉さんが殺されたのは、恐らく昨晩のことではないかということなんですが、あなたは、どこで何を?」
「宿泊している旅籠にいたよ」
その場所も聞きだし、白鳥は頷いた。
「彼はその、見事な太刀筋で一刀両断にされたわけですが、あなたは剣の腕は?」
「悪いように見えるかね?」
直木はさっと袖をまくって、丸太のように太い腕を見せた。赤銅色の肌の下に、恐らくは筋肉が詰まっているだろう。
「……そうですか。その、留吉さんには、随分と悪い条件を提示されたみたいですね」
「え? この舞台の報酬のことか?」
「その通りです。何か思うところもあるのでは?」
「……いや、全く。君くらいの年齢なら、たぶんまだ私のことを覚えているだろう」
覚えているどころか、この復活公演を観劇するつもりであった。懐には、その宣伝用のチラシがまだ入っている。全く、こんなことがなければ、署名の一つでも貰いたいところであったのに……。
そういう口惜しさは何とかひた隠しにして、白鳥は話を促した。
「ところが今では、もう私のことを覚えている人間はいない。役者としては完全に終わってしまっているんだ。それがまた多くの客の前で劇が出来るかもしれない。そう思ったら、少しはわくわくしないかい?」
直木は、実に小ざっぱりとした笑みを浮かべていた。
「そういうものですか?」
「ああ、そういうものだ。また、直木丞之助として舞台に立てる。君のような熱烈な観客の前で長台詞を言い、殺陣を行ない、良い演技が出来れば喝采をいただく」
直木はうっとりと宙を見上げていた。
かつての栄華を思い出しているのだろうか。彼が一世を風靡した時、市中に名を知らぬ者はなかった。
彼を描いた絵は飛ぶように売れ、冗談みたいな話だが、それで印刷技術が飛躍的に向上した。子供達は彼の真似をした。ごっこ遊びをする時、彼の役を誰が演じるのかで揉めたことだってあった。
そんな過日の思い出が一気にぶり返した。薄暗い中で見る直木は、まだその熱情を忘れられずにいるようだったからだ。その熱に白鳥達も当てられ、自然と心が躍った。
「たった一人でも良いんだ。また、私の劇を見て欲しい。それが役者の本懐だ」