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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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憧憬の決着①

 警邏を終えて、番所へと戻ってきた時のことだった。

 その日は曇天が頭上に広がり、案外と冷たい空気が海の方から流れてきていた。雨になるかもしれない、という予感があって豆河通りの人だかりも多くはなかった。

 白鳥の手には一枚のチラシが握りしめられている。それは今度行なわれる、劇に関する宣伝のチラシであった。河津はその紙きれを覗いて、呆れたように髭を引っ張った。

「はあ、直木丞之助、ねえ」

「ええ、彼は素晴らしい役者ですよ」

 白鳥はいつになく上機嫌だった。

 直木というのは、かつて――といっても十五年以上前だが――市中で一世を風儀した役者の名前だ。当時の子供達の中では、彼の劇を観ることが一種のステイタスであり、見たことのない奴は蔑まれることもあった。

 もちろん白鳥も、当時は直木丞之助に熱中していた。彼の劇の大半は、大人にとっては退屈だったろう。明確な勧善懲悪ものだったし、人々の感情の移ろいよりも殺陣に重きを置いた活動的なものが多かったからだ。

「ほお……そんなガキっぽいもんを今でも見んのか?」

「いえ、直木は、十年ほど前に突然表舞台から姿を消したんです。まあ、その頃には人気も下火でしたけど、でも引退するには早かった。で、そんな彼が、突然また演劇を再開すると発表したんです」

 白鳥は自慢げにチラシを見せた。河津は怪訝な顔をしている。こんなにきらきらしい白鳥の姿を見るのは初めてだった。

「なるほどねえ……大人になったと、がっかりしなけりゃいいな」

「どちらかというと懐古的なものですよ。昔はこんなものを見ていたんだって言うね。それに、僕は結構筋金入りだったんです。最終公演も見に行きました。その時、彼、言っていたんですよ。沢山修行して、また戻ってくるって」

 ふうん、と河津は恬淡な様子で呟き、番所の引き戸を思い切り開いた。

 彼の動作は結構荒っぽい。ぴしゃん、とけたたましい音がして、土間の真ん中に立っていた女性が、さっと振り返った。

 河津は、引き戸を開けた体勢のまま固まった。振り返った平野が恐ろしく不機嫌だったからだ。きりりと引き締まった冷厳な顔には、いささかの苛立ちが滲んでいた。

「相変わらず、お前の立てる音はうるさいな」

「は、申し訳ありません、お嬢」

 河津は小さく縮こまりながら頭を下げた。平野はその様子を一瞥して、首を振りながら番所の外に出た。

「殺人だ。お前らもついてこい」

 そう言って二人の脇を抜け、大股で歩き出す。

 白鳥と河津は顔を見合わせた。まさか、番所で待っていてくれたのだろうか?

 その答えは出ない。けれどもお互い肩をすくめて、彼女の後ろについていった。

 三人がやってきたのは小さな劇場だった。傾斜のついた扇形の観客席から、一段低い所にこぢんまりとした舞台がある。

 稽古をしていたようで、大道具が出しっぱなしになっていた。白鳥はあんぐりと口を開け、自分の握りしめているチラシと、舞台上の装置とを交互に見やった。

 その様子に平野が半眼を向ける。男のロマンを理解している河津は、そっと耳元で囁いた。

「直木丞之助って知ってますか? お嬢」

「ああ。あれは優れた役者だった」

 平野も目を輝かせている。その様子に、河津も思い出すことがあった。そういえば、この女も十年前は子供だったな、と。

「恐らく、ここがそいつの復活公演をやる舞台だったようで……」

「ほお」

 平野は目をすがめ、舞台上を見やった。

 どこかの橋の上が作り上げられているようだ。背景は青空で、桜吹雪が舞う様子が描かれている。

 何ともべたな絵だな、と河津などは呆れるのであるが、白鳥や平野みたいな若者からすると、これこそが幼い頃に見た憧れの光景なのだろう。

 客席の半ばほどで立ち止まった三人の方に、先に来ていた同心の一人が近付いた。

 彼は四十代だが、目を輝かせている。その様子から察するに、子供と舞台を見に行って、そのまま直木にはまった口だろう。

「平野さん、一応、被害者の遺体を見ることも出来ますが……」

「ああ、分かった。おい、白鳥!」

 まだチラシを持って固まっている白鳥を呼びつけ、一行は舞台に上がった。

 橋の真ん中におびただしい量の血が流れ、どす黒く染まっている。その様子を見ながら同心の一人が顔のしわを伸ばした。

「被害者は、この劇場の持ち主である留吉です」

「死因は?」

 平野は橋の血溜に視線を注いでいた。

 本来、ここは直木丞之助の輝かしい劇を行なう場所だ。彼は劇中でこそ悪を斬るが、それはもちろん演劇の一部である。本来、こんなものは存在してはいけないものだ。

「はい。切れ味のいい武器で一刀両断、ですね。今、目明し達にも劇の小道具や、用心棒達の武器などを調べさせています」

「殺される動機はあったのか?」

「ううん、それが良く分からんのですよ。あるといえばあるんですが、ないといえばない。留吉は随分と金にがめつかったみたいで、役者を手酷く扱うこともあったみたいです。今はその線から探っています」

 とは言うものの、同心の口ぶりは歯切れの悪いものだった。平野が視線を向けると、彼はその眼光の鋭さにたじろぎ、小さく首を振った。声は限りなく低められていた。

「この劇は直木丞之助の復活公演だったわけですが、まあ、以前ほど採算が取れそうもなく、随分と悪い条件で彼を引っ張ってきたみたいなんです」

 平野は眉間にしわを寄せた。その面上に僅かな憂いが見えたが、それに気が付いたのは白鳥ただ一人だった。彼は己の心を振り絞り、同心に尋ねた。

「彼が疑われているんですか……?」

「ううん、まだ、そこまでじゃないんだが、その、留吉の傷がなあ。かなり綺麗にばっさりやられているんだ。用心棒でも、やれる奴は限られるだろう。直木はもちろん剣の達人だから、恐らくは出来る腕を持っている。そういう意味で容疑者の一人だ」

「そんな!」

「俺だってな、疑いたくはねえんだ。でも、奴さんも留吉には思うところがあるみたいで、ちょっと怪しいんだよ」

 同心も唇を噛んでいる。平野も青ざめた顔をしているようだった。ただ一人、冷静だった河津が、気を引くようにして手を叩いた。

「ともかく、まずは調査だ。誰が容疑者かはそのあとに決めるぞ」

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