五年目の真実④
診療所に寄ると、医師が微妙な顔をして出迎えてくれた。たえが起き出して、巾着がないと騒いでいるらしい。
白鳥は、たえがいる部屋に入った。追いついてきた河津には外で待つように告げた。
中に入ると、たえが半狂乱に喚き立てている。白鳥はその様子に目をすがめ、巾着を見せた。
「ああ、ああ……」
はらはらと涙をこぼしている。伸ばしてきたたえの手を取り、白鳥は感情のこもっていない低い声を上げた。
「もう少しだけ、貸してはいただけませんか?」
「あ、うう……」
「あなたを襲った犯人を問い詰めたいんです。必ず返しますから」
「しょ、庄三郎さん……庄三郎さん……」
たえは何度も唸り声を上げた。終いには医師が入ってきて、何やら薬を飲ませてしまった。あっという間にたえは体中の力を失い、床に崩れ落ちた。
「病人に話が通じると思うな。さっさと行け」
話を聞こうと思っていたのだが、そういうことは出来そうもなかった。
どうやら起き出してからこっち、たえの精神力はかなり衰えてしまっているのだという。
「まともな生活に戻れるかは、五分五分だ」
「どうにもなりませんか?」
「本人次第だろうな」
医師は冷淡に言い、それから首を捻った。
「それで、庄三郎って誰だ?」
「……聞かないでください。彼女達の名誉の為にも」
医師は訳知り顔で頷き、顎をしゃくった。さっさと行け、というのだ。
白鳥は自然と怒りを発しながら診療所を出て、豆河通りへと足を向けた。
今日も今日とて人出がある。いつもより荒っぽく押しあいへしあいをしながら、商人達が進んでいく。白鳥は唸り声を上げて、その人込みを掻き分けた。
目当ての生糸問屋に来た時、彼は汗みずくで肩が上下していた。
追いついてきた河津は厳しい顔をしていた。店の中には色とりどりの糸が揃えられていた。羽振りは良いらしい。すぐに番頭らしき男が近付いてきてくれた。
「店主の庄三郎さんを」
と白鳥が言うと、すぐさま店の奥から若い男が出てくる。歳は三十そこそこのようだ。水も滴るという表現が似合う美男である。その心までは保証しないが……。
「何か、御用でしょうか?」
その軽薄な笑みがいかにも腹立たしく、白鳥は目をひんむいて命名書を彼の眼前に見せつけた。
「これに覚えは?」
「……ありませんね」
目を細めた庄三郎は煩わしげに白鳥の手を払い、ぎくりと顔を引きつらせた。
それほど白鳥は怒っていた。男女が不義理を果たすのは良くあることだ。世の中には望まないまま契りを結ばされる人達も多いと聞く。
相手にばれないように上手くするならば、まあ、少しの火遊びくらいは許容したって構わないのではと思う。
だが、子を作り、命名書まで渡した上でゴロツキに女を襲わせるような奴を許せそうにはなかった。
「たえさんという女に心当たりがありますね?」
白鳥達は店のど真ん中にいる。
生糸を選びに来ていた年かさの女が三人の様子を窺っていた。
それに気付いて庄三郎は店の奥へといざなおうとしたのだが、今度は白鳥が煩わしげに彼の手を振り払った。
「あなたが五年前に抱いた女ですよ。腹に子供を宿していたにもかかわらず、船乗りの恵次郎達に襲わせて、殺そうとした」
「ちょ、ちょっと」
庄三郎が手を引く。白鳥は頑として動かず、鋭い眼光で彼を睨んだ。この生糸問屋の店主は出来る限り声を低めた。
「なんてことを言うんですか? ここは店先ですよ」
「じゃ、往来に出てやりましょうか」
そう言って、白鳥は力一杯庄三郎の腕を引き、店から出ようとした。彼は慌てた様子で喚き、白鳥に身を寄せた。
「勘弁して下さいよ。私にだって生活はあるんです」
「徳蔵さんとたえさんにはないとでも?」
「それは……」
「ちなみに、恵次郎さんが吐きましたよ。他にも仲間がいたみたいですから、そちらにも聞けば、あなた達の関係は明るみに出るでしょうね」
庄三郎が、さっと顔を青ざめさせた。彼は白鳥を店の端に引っ張り、ますます声をひそめた。
「何が目的なんです?」
「……あなたが殺し損ねたたえさんが目を覚ましましてね。住む場所がないんですよ。これまで通りに、お金を流していただけませんかね?」
庄三郎は顔を歪めて承服した。何度も首を上下させる。
「分かりました。あの女はどこに行くんです?」
「また恵次郎さんを派遣して、今度は殺しますか?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。私はここの婿養子なんです。妻には頭が上がらないんですよ」
脂汗が日差しを浴びて鈍く光っていた。庄三郎は本当に慌てているようだった。そこで白鳥も声を絞った。
「……じゃあ、何故たえさんの面倒を見続けたんです?」
「それは……」
「また、何か発見するたびにここに来ましょうか?」
庄三郎はかぶりを振った。
「恵次郎は、徳蔵に金を貸していた一人でした。彼はその借金証文を一つに束ねて、徳蔵に店を売るように要求したんです。それで、あの夫妻から金を稼ぐ手段を奪った」
「何のために?」
「たえを遊郭に売るつもりだったみたいなんです。とびきりきつい仕事をさせて、彼女が音を上げるのを待った」
「でも、音を上げなかった?」
「仕方なく割の良い仕事だと言って、私とたえを引き合わせた」
あとは簡単だ。時たま会い、援助をしているうちに、お互いに燃え上がって本気になってしまった。
そして、たえに子供が出来た。庄三郎も恵次郎も、それを避けるために堕胎薬を渡していたのだそうだが、たえは飲まなかったのだという。
「たえと一緒になって無一文になるか、この店に残るかという選択を迫られて……」
庄三郎は禁じ手である恵次郎を使い、たえを襲わせた。そして五年の月日が経ったわけだ。
「悪いことをしたとは思っております。ですから、徳蔵にも最大限の援助を図りました」
彼にも薬を買ってやっていたのだという。けれども徳蔵はそれを拒み、病魔に冒されて死んだ。
「私に出来る限りのことはさせていただきます。それでどうか、ご容赦を」
何度も必死に懇願する庄三郎を、白鳥は冷めた目で見ていた。
だが、言葉は出てこなかった。
河津にあとのことを任せて、白鳥は診療所に戻った。
もう徳蔵の弟夫妻がやって来ていて、変わり果てたたえに気の毒そうな顔をしている。白鳥は、命名書の入った巾着を不幸なる妻に返した。彼女はそれを大事そうに抱えている。
その様子に、徳蔵の弟とその妻が身を寄せ合っていた。
「あんなに大事そうに……」
「兄さんのことが忘れられないんだな」
結局、たえは親類の家に預けられるのだという。
市中からそれほど離れていない、小さな港町だそうだ。帰っていく三人の後ろ姿を見て、河津が微妙そうな顔をしていた。
「どうかしました?」
「ああ、いや……」
「こんな事件にあうのは嫌なもんですね」
「それも、そうだけどよ」
と何とも歯切れが悪い。
白鳥が半眼を向けると、彼は泣きそうになりながら、診療所の近くにある茶屋を指差した。そこでは若い女と、五十がらみのでっぷりと肥えた男が茶を啜っている。
「おや、あそこにいるのは川上屋のご店主と……娘さんかな? いや、あすこに女子はいなかったはずだけど」
「あれだ」
「え?」
「あの女だよ。俺が言っていたの!」
朝方からずっと話していた、長屋の未亡人らしい。
白鳥は難しい顔をした。そのうち、川上屋の店主が白鳥に気付いた。
その店は市中でも名だたる大店である。白鳥屋よりもよっぽど実入りが良い。
当然のこと、白鳥屋の次男坊の顔も知っている。彼は唖然とした様子で白鳥を見て、慌てて頭を下げて店の中に戻っていった。
「……ふっかけたら、いくらか貰えますかね。いやいや。考えるべきじゃないか」
白鳥は、悪夢にうなされている河津の手を引き、番所まで戻った。
男泣きに泣きくれている河津を見て、平野も察したらしい。その晩は三人で、花街の酒場に行った。