五年目の真実③
そうして二人は昼下がりの港へとやってきた。
船がひっきりなしに行き来している。見るからに堅気ではないような男達が船べりに立ち、大声を上げていた。帆船や手漕ぎ船が、まるで弾丸のように海面を切り、沖合へと出ていく。
今日は波も穏やかそうだった。反面風は少しだけあり、歩いているうちに浮いた汗があっという間に引いた。
二人は目当ての店に入った。
店は嵐のあとのような、雑然とした中で静けさに包まれている。さながら繁殖を終えた鮭の群れのように、男女が机や棚に突っ伏していた。恐らくは大口の仕事をようやっと終えたのだろう。
「すみませんが」
と声を掛けると、勘定台のところで転寝をしていた男が立ち上がった。三十路過ぎというくらいだろう。目の下にはクマが出来、頬が痩せている。
彼は二人が見せた印籠に、蒼白の顔をますます青ざめさせた。
「あのう、実は、たえさんのことで――」
「たえ、ですか?」
その男は怪訝な顔をした。徳蔵の弟を呼んできてくれ、と言うと、乱れた服の裾を直して笑った。
「わたくしでございます」
「ああ、そうですか。実はあなたの兄嫁の、たえさんが目を覚ましましてね。それで旦那さんはもう亡くなっているそうですから、あなたに身元を引き受けていただけないかと思ったんです」
「はあ……」
明らかに疎ましがるような、気のない返事を男は返した。ざっと見ると、年配の従業員も眉間にしわを寄せている。
「何か、あったんですか?」
「いえ……いえ、五年前は酷い有様でしたから。思い出す者も多いんでしょうね」
「ああ、徳蔵さんのこと……」
「それもありますが、やはり借金です」
と男が声をひそめる。彼が言うには、たえが倒れたあと、徳蔵はこの弟に泣きついてきたのだという。その結果、借金取りが彼の店にまでやってきた。
「払う義務のないものだと主張することは簡単でしたが、それを相手に納得させるのは困難でした。店の商品を奪われたことだってあります」
「それは、奉行所には?」
「訴えましたよ。でも力にはならなかった。代わりに当時、良くしてくれる方がいて、やっと解決したという有様でした」
男は力なくかぶりを振った。
見れば彼の店はかなり利益を上げていそうだった。扱っている商品も、高級すぎず、されども低級すぎない。まさしくそれなり、という言葉が似合いそうだ。
堅実に仕事をすれば、食うには困らないだけの金を稼ぐことが出来るだろう。そして、それを遂行するための誠実さも持ち合わせている。そこに目を付けた借金取りがいるのも事実だろうし、手を差し伸べる人がいるのも理解できる。
だが、何とはなしに気になってしまったのだ。
「良くしてくれる方、ですか?」
「ええ、生糸問屋の店主なんですが、庄三郎さんと言いましてね」
白鳥は、眉がぴくりと動くのに気が付いていた。
しかしながら、それは本人しか理解しえない、些細なものであった。男は構うことなく話し続けているし、河津も親身になって聞いている。
「――起きない、たえさんの治療費も肩代わりしてくれたんですよ」
「なるほどなあ。そりゃ、傑物だわな」
河津は納得した面持ちで頷いている。
ただ一人、白鳥だけが釈然としない。家族思いだったというたえが、無意識のうちに発した庄三郎、という言葉と命名書、そして生糸で出来た巾着だ。
白鳥は咳払いをした。男達の目が向く。
「庄三郎さんというのは、どういう人です?」
「ええと、豆河通りで生糸問屋を営んでいます。歴史は古いでしょうね。人柄としては……愛妻家というのが、わたくしの受けた一番の印象です。五歳になる息子さんも、よく懐いておりましたよ」
「息子さんがいるんですか。名前は?」
「ええと、庄太郎、だったと思いますが……」
白鳥は何とはなしに頷いた。河津が怪訝な顔をしていたものの、あえてそちらの方は見ず、さらに質問を重ねた。
「ちなみに、徳蔵さんに付きまとっていたゴロツキは?」
「え? ええと、恵次郎と言ったはずです。この前も捕まったとかいう話ですよ。ろくでもない奴です」
白鳥は小さく頷いた。ゆっくりと踵を返すと、二人が呆気に取られた様子で見ていた。
「……曖昧にしておくとあとが面倒ですから」
言い訳がましくそう呟き、男には、たえのことを頼んでおいた。
店を出るとすぐ河津が追いかけてきた。困惑した面持ちで白鳥を窺っていた。全く、彼が何を考えているのか分からなかったのだ。
けれども往来のど真ん中で話す気はなかった。白鳥は足を止めることもなく港を抜け、市中の中央にある町奉行所の本体へと向かった。恵次郎はそこにいるようだった。
衛兵に案内され、牢を見て回る。木枠のところに餓鬼みたいな人々が群がり、格子を揺らしていた。唸り声を上げ、虚ろな目をしていた。
「ここです。おい、恵次郎はいるか?」
衛兵が一つの牢の前で立ち止まった。
中には十人ばかりの男達がいる。ちょうど気の弱そうな一人を殴りつけているところだったらしい。衛兵は顔をしかめたものの、いつものことだ、と言わんばかりに目を瞑っていた。
「こちらにいる同心の方が話をしたいそうだ。さっさと来い」
恵次郎、という名の男は、それほど若くはなかった。どう見ても五十そこそこだろう。髪の毛には白い物が混じり、右目の斜視が酷く、そして前歯がそっくりなかった。
「おう」
元気良く返事をした彼は牢から出され、近くの小部屋に案内された。
落ち着いた佇まいなのは、ろくでもない人間の証拠だ。彼は不敵に笑い、白鳥の前に腰を下ろした。二人の間には小さな正方形の机があるばかりだ。
白鳥はその上に、巾着と、その中に入っていた命名書を広げた。恵次郎は眉をひそめている。
「五年前、あなたが取り立てをした人間の中に、徳蔵さんとたえさんという夫婦がいたと思うのですが」
「……ふうむ」
「徳蔵さんが病気がちで、たえさんが身を粉にして働いていました」
恵次郎は顔のしわを伸ばしながら、じっと天を見上げている。
河津が険しい顔をしたものの、白鳥はそれを抑えさせた。恵次郎が何かを考えていることは分かる。非協力的なことだったら、その時は殴りつければいい。
「……ああ、長屋のか。弟が廻船問屋をやっていた」
「そうです。これは、そのたえさんという女性が持っていた物なんですが、見覚えは?」
「あるといえばあるし、ないといえばないな」
恵次郎は犬のように舌を出しながら笑った。ということはあるのだろう。白鳥はそれらを片付けながら、ぼそりと呟いた。
「そうですか。残念です。恩赦も考えられる案件だったのですが……」
「え?」
「いえ、もう良いんですよ。あなた、この人を牢へ――」
とそっけなく言おうとした白鳥に向かって、恵次郎が手を上げた。衛兵が怪訝な顔をしている。白鳥は頷き、彼を元の位置に戻らせた。
「じゃ、聞きましょうか」
恵次郎は途端に顔を紅潮させた。
「ああ。見たことがある。庄三郎という男が渡していた」
「それは、どこの誰です?」
「豆河通りで生糸問屋をやっているんだ」
河津が息を詰めた。白鳥は、恵次郎を真っ直ぐ見つめながら、かぶりを振った。
「まさか。彼はあなたと付き合う必要もないほど、清廉な人ですよ?」
だが、恵次郎は激しく首を横に振った。机に手をついて身を乗り出し、白鳥に向かって声を低めた。
「そんなことはない。奴はあんたが思っているような奴じゃない。昔から女癖の悪い奴だった。その尻拭いを俺達にやらせていたんだ」
そう言って恵次郎は白鳥の横帳と筆を奪い、何人かの男と船の名前を書いた。どうやらとびきり柄の悪い船頭と水夫らしい。
「あの日もそうだった。たえが突然、庄三郎の店に来たんだ。子を孕んだって。庄三郎は奥さんにばれたくなくて、俺達を呼びつけて徹底的に痛めつけろと言った」
河津が鼻息荒く何かを言いたそうにしていた。白鳥は、そんなことには気づかず、命名書を広げ直して恵次郎の字と比べた。
「あなた、字が綺麗ですね。この命名書、あなたが書いたんですか?」
「ああ。昔から母ちゃんに褒められたよ。どこでこんなことになっちまったんだろうなあ。それで恩赦の方は?」
「……あなたの話を裏取りしないことには、どうしようもありませんねえ」
「じゃあ、早くしてくれ。来月、娘が結婚するんだ」
それにぜひとも出席したいのだという。何とも自分勝手な話だ。白鳥は眉間にしわを寄せた。
「あなた、人を二人も殺した実感がありますか?」
「あ?」
「たえさんのお腹にいた子供と、徳蔵さんを殺した自覚があるかと聞いているんですよ」
「あるわけないじゃねえか。子供は生まれてねえんだし、あの夫の方は病死だ」
白鳥は溜息をついて立ち上がった。
口やかましくなおも懇願する恵次郎を冷淡に見下ろし、かぶりを振って部屋を出た。
あとから河津の怒号と、恵次郎の悲鳴が聞こえてきたが、彼は全く足も止めずに奉行所を出た。