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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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五年目の真実①

「はあぁ……。それでよお――」

 恍惚の笑みを浮かべ、河津が中空を見上げていた。彼の心を現したみたいに、空は雲ひとつない快晴で、日差しもそれほど強くなく、風も吹かない暖かな日だった。

 二人が歩いている豆河の河原も穏やかな雰囲気が漂っている。

 彼の髭はいつも以上に手入れがなされていて、着物も普段より一段いい物を身につけている。大抵は適当にしている髷だって、ここ最近は数日に一度、髪結い所に行って手入れをしているようだ。

 河津は最近、とある女に恋をした。未亡人で子はなく、河津の屋敷の近くにある長屋に一人で暮らしているらしい。

「はいはい、今日でもう七回目ですよ。僕だって馬鹿じゃありませんからね。料理も上手くて、優しいんでしょ?」

 白鳥は呆れ切った顔で、数日のうちに何度と聞かされた言葉を述べる。

 河津は己の身を掻き抱いた。この調子で平野にも話を繰り返し、進展してからもう一度来い、と話を遮られてしまった。ぶん殴らない辺りに彼女なりの思慮があるのだろう。

「そうなんだよ。お前、分かるか? 正則さんはお優しいんですね、なんて耳元で言うんだぜ?」

 実にきらきらしい笑顔で話してくれるが、冷静に聞いている白鳥からすれば、どうにも女の行動に疑問が残る。

 清廉潔白な若いお嬢さんが、三十路過ぎのおっさんの耳元で甘い言葉を囁くなんてことがあると言えるのだろうか。

 白鳥は半眼を向けた。

「まあ、ほどほどにしておいてくださいよ……ん?」

「あん? どうした?」

 もちろんのこと、二人が無駄話するということは、近くに平野がいないということだ。

 あの女上司は、そういう無駄なことを嫌う。あまり馬鹿げた話をしていると、突然番所の控室の扉が開いて、じろりと睨まれるわけだ。

 であるから、二人は警邏の時くらいしか、こんな話が出来ないのである。

 今は、ちょうど豆河通りの一番騒がしい場所を抜けて、芝が生えそろう北の河原の方までやってきたところだった。遠くの方に峰々がそびえ、市中の最も発展した部分との対比が色濃く出る場所である。

「いや、あそこ、人の手が見えません?」

 白鳥が指差したのは川のほとりだ。

 そこはススキが群生しており、小柄な人ならば簡単に覆い隠せる。いわゆる恋人達の絶好の密会場所だ。

 いつだったか来た時は裸の男女がまぐわっている最中で、二人してことが終わるまで鑑賞し、絶頂に達した瞬間に拍手喝采を浴びせてやったものである。

 そんなススキの群れの一部が無造作になぎ倒され、そこから人間の白い手のようなものがうっすらと見えているのである。

 河津は怪訝な顔をした。確かに人の手のようにも見える。しかし、もしかしたら別のものかもしれない。

「見なくて、いいんじゃねえかなあ……」

「……では、河津さん。明日のことを考えてみましょう。あれが万一、人の手だったとしましょう。今晩、夜番の同心達がそれを見つけたと仮定します。翌朝、不機嫌な平野さんが番所の土間に立っていて、死体が――」

「ああ、もういい!」

 河津は激しく手を振った。どうせ面倒なのは今の一瞬だけだ。あとに送れば送るほど、より面倒な事態になる。それが分かっている。

 もしも、今、あの死体か何かを見逃したと平野にばれたら、それこそ折檻されてしまう。河津の浮かれっぷりと相まって、白鳥にも苛烈な罰が与えられるのは必然だ。

 二人は急いで傾斜を駆け降りた。辺りに人の気配は全くない。昼間っから乳繰り合う奴はそういないものだ。先日の恋人達が狂っていただけである。

「あのー」

 白鳥は、ゆっくりとススキの林に近付いた。

 川のせせらぐ音が、いかにも日常を演出しているようだった。距離が縮まるほど、ススキの間から見えているのが人の手であることが判然とする。

 二人は、ちらと顔を見合わせ、倒れたススキの前に立った。

 そして次の瞬間に、河津は弾けるように踵を返し、白鳥は覗いていた手を掴んだ。

 髪の長い女が倒れていた。不摂生がたたったという感じは受けない。爪も切り揃えられているし、髪の毛だって無精で伸ばしているわけでもないようだった。

 まだ手は温かい。脈を取ってみても、死んでいるわけではなさそうである。しかし血の気は限りなく薄そうだ。顔だけでなく肌も青ざめていて、何とも白っぽい。

 そういえば祖父が死んだ時、同じように肌が白くなって恐ろしい思いをしたっけな、なんて不謹慎なことを思いつつ、その女を日差しの下に引きずり出した。

「……うう」

 女が顔をしかめ、呻き声を上げた。彼女は日光の眩しさに眉をひそめたようだ。白鳥はちょっと荒めに頬を叩き、女に声を掛けた。

 彼女はうっすらと瞼を上げ、傍らで膝をついている白鳥に手を伸ばした。

 美しい顔立ちをしている。女性らしい丸みを帯びた印象があり、それが儚げな色を湛えている。

「大丈夫ですか? 名前は言えますか?」

「ああ、うう……」

「良いんですよ、慌てなくとも。何か欲しいものはありますか?」

「しょ、庄三郎……さん」

 女は強く白鳥の手を握った。もう一方の手で着物の胸元をまさぐり、何かを取り出した。

 そこで意識が途切れたらしく、がっくりと頭を落とした。

 白鳥は慌てて女に声を掛けた。どうやらまだ生きているようである。それにほっとして、乱れた衣服を直してやった。

「全く……大の大人がこんなところで寝るなんて」

 思わず髪の毛を掻きむしる。

 女の体の近くには、先ほど彼女が取り出した物が落ちていた。どうやら生糸で作られた巾着みたいなものらしい。

 中には安産祈願のお守りと、命名書が入っていた。

 達筆な字で〝庄之助〟と書かれている。先ほどの名前を勘案すれば、この女の子供であろうか。腹が膨らんだ様子はないから、流れて絶望したのだろうか。それで身を投げに来たのか……。

 いや、と白鳥はかぶりを振った。女が水に濡れた様子はない。ただ単に行き倒れているだけのように見える。

 程なくして河津が医師を連れて戻ってきた。傍らには彼の弟子が五人ほどいる。大きな板塀を持っていて、それにすぐさま女を乗せた。

「話は診療所に戻ってからだ」

 医師はそう言って、さっさと駆けだしてしまった。

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