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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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忘却の英雄④

 三人はそのまま、いつもでは考えられないほど優雅に戻った。番所の入口に立っていた平野が唖然とするほどだ。用意されていた馬車は六頭立てだった。

 降りるとすぐに、白鳥は娘の手を引いた。番所の建物をぐるりと回り、裏にある土蔵へと案内する。

「どうぞ、こちらです」

「……あら、嫌だ。人の妻なのに。心が躍りますね」

 娘は朗らかに笑った。白鳥よりも歳は上のはずだが、何とも人懐っこく、幼い印象がある。白鳥は顔を赤くしながら、取り繕うようにかぶりを振った。

 土蔵の中に入ってもらい、激しい取り調べを受け終えた喜平太の顔を確認させた。

 物陰からその顔を見た娘は、彼のことをよく覚えていた。

「あの子……そうだわ。喜平太よ。いつも人の顔を窺うようにして笑うの。卑屈な子だった。何をしても上手くいかないって、泣いていたのを思い出すわ」

「……そうですか」

「それを勘助がいつも怒っていたわね。下から見たって人が不細工に見えるだけだって」

 娘はくつくつと笑った。白鳥は険しい顔を喜平太に向けた。

 少なくとも今は、もうそういう子供ではないだろう。彼は目的を完遂して、心の扉をきつく縛りつけた上で、本心を完全に隠している。

 白鳥は頷き、部屋の中に入った。今日は梅でいいだろう。河津は外で待たせておく。

 びしょ濡れの喜平太が、紫がかった唇を震わせていた。目はうつろで、先ほどまでのような、軽薄な印象は薄らいでいる。

「喜平太さん」

「……何だよ?」 

 あのあとも平野に散々絞られ、気力がないみたいだった。つん、と刺激臭が鼻をついた。恐らくは漏らしたんだろう。

 白鳥は咳払いをして、転がっていた木桶を所定の位置に戻した。

「あなたは二十年前に誘拐されましたね? その事件の中で親友の勘助を同心に殺された」

 よほど余裕がなくなっているのだろう。喜平太は、かっと目を見開いた。

 心を閉じていた鎖が緩んでいくのが、手に取るように分かる。覆い隠されていた底意がむき出しになる。

「そんなこと、関係ねえだろ!」

「勘助さんを殺した同心が佐助さんでも?」

 喜平太は目をひんむいた。唸るような声を上げ、石造りの床の上に額をつけ、何度もぶつけた。

「知らねえ!」

 喜平太の声が響く。白鳥は無言で睨みつけていた。ともかく、喜平太が佐助に薬を売っていたことは事実だ。

「あなたは、佐助さんのことには気が付かなかったんですか?」

「知るわけがねえだろ!」

「怒鳴るのはやめなさい。事実はどうあれ、おそらく佐助さんは気付いていた。あなたがあの時の少年であることを」

 喜平太は、それまでとは打って変わって険しい顔を向けた。

 そこには二十年も醸成された、憎悪のようなものが浮かんでいる気がする。

 白鳥はじっと見つめた。薬を売るのは犯罪だ。だが、それを中毒者に多く摂取させようとする行為は殺人教唆に含まれるのだろうか。

 まあ、それは白鳥の関与する話ではない。鼻を鳴らすと、濡れた喜平太の肩を叩いた。

「……彼は二十年、あなたが思う以上に苦しんで生きてきました」

「だとしても勘助を殺した事実は覆せねえ」

「勘助さんは、佐助さんを殺そうとしたんでしょう?」

 喜平太は顔を上げた。

「それでも殺すことはなかっただろう? たった五歳の子供だぞ? 殺す前に出来たこともあったはずだ」

「でも、勘助さんには殺す意思があった」

 佐助の腹には古い傷が残っていた。恐らくは勘助につけられた傷であろう。彼は二十年経った今でも、それを引きずっていた。その痛みに耐えていた。果たして喜平太が、それを知っていたか? それは不明だ。彼は涙を流れ落ちるままにしていた。

「五歳の子供には、まだ何も分かっていなかったはずだ!」

 喜平太の慟哭が部屋中を震わせた。彼は濡れた顔をますます濡らし、何度もかぶりを振った。

「それでも、死の意味くらいは分かっていたはずですよ」

「あいつは五歳だったんだ! ああするしか生きる道がなかった……あの男に愛を抱く以外に、七日間を過ごす術がなかったんだ」

 喜平太が、低くくぐもった泣き声を上げた。彼の顔はますます濡れ、露わになった太股に、水滴が滴り落ちた。

 白鳥は悲しげに顔を歪めて溜息をつき、踵を返した。

 話すことはもうない。説得する余地も。自分の影が映りこんだ出入口の戸に手を掛け、もう一度、叫ぶ喜平太の方を振り返った。

「満足のいく結果は得られましたか?」

「あ?」

 喜平太が鋭い視線を向けた。その視線にはやはり憎しみの刃が研ぎ澄まされていて、白鳥の心臓は高く跳ねた。それでも言葉だけは何とか振り絞った。

「あなたの目論見かはいざ知らず、佐助さんは亡くなりました。あなたには何がしかの罪と罰が科せられる。それで満足ですか、と問うているんです」

「……ああ、満足だ。勘助の仇は取ったんだから」

 喜平太の瞳に憤怒の炎が燃え上がった。引いてしまった貧乏くじに、仕方がないと諦観の面持ちでいたのだろうか。それとも、佐助の憐憫が彼を変えたのか。

 真相は不明だ。どのような意見も推測の域を出ないだろう。事実を並べたって、逆推することさえ不可能だ。

 白鳥は冷淡に目を瞑り、そのまま土蔵から出た。

 喜平太はその日のうちに奉行所へと連れて行かれた。

 彼がどのような証言をするにせよ、薬物を売ったという罪だけは消えない。その背中をじっと見ながら、白鳥はぼんやりと呟いた。

「……この事件、誰が得したんでしょうか」

 隣に立っていた河津は、自分の愛刀を撫でながら苦々しい声を漏らした。

「分からん。だが、俺達も誰かに恨まれているだろうってことは分かる」

「正しいことをしているはずなのに……」

「善悪ってのは多数決みたいなもんだ。沢山の人がそうと信じているから守られているだけのこと。少数の人間には何をしたって恨まれるもんさ」

 それでは何とも報われない仕事だ。白鳥は口元を手で覆い、深く溜息をついた。

「佐助さんは、ほとんど完璧に仕事をしたっていうのに。誰も彼もが忘れていく……」

 中年同心は、優しげな顔で新人の肩を叩いた。

「俺達だけでも覚えておけばいい。佐助は上手くやった。あれ以上はない」

 河津はそう呟き、白鳥の肩を叩いて番所に戻った。

 白鳥は、喜平太の背中が見えなくなるまで、じっと目を凝らしていた。

 だが、いつまでも感傷に浸っていられるわけじゃない。ぼんやりと立ちつくす彼の背中に、慌ただしい声が掛けられた。

 いつもの目明しが、息を急き切らしながら駆けこんできたのだ。

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