忘却の英雄①
「で、誰が死んだんですって?」
白鳥は豆河通りの喧騒を掻きわけるようにして進んでいた。
前を行く河津も、神平家の紋が入った印籠を掲げ、拝金主義者達を押しのけている。彼らの通ったあとには悪態が広がったものの、そんな瑣末なことを気にしていられないほど状況はひっ迫していた。
「分からん。だが、往来で急に暴れ出して、そのままぽっくりらしい」
前を向いたまま叫んだ河津は汗をびっしょりと掻いている。それは白鳥も同じだった。今日は何だか蒸し暑く、雨が降る直前みたいな、湿気の溜まった陽気だった。
「ったく、迷惑な人ですね」
「そう言うな。薬物中毒だ」
二人は急いで現場に向かった。
そこにはすでに何人かの同心がいて、野次馬達に死んだ男に見覚えはないか、と尋ねている。二人は男の死にざまを見て、何とはなしに目を逸らしたくなる気分になった。
何せ、おおよそ七十に手が届きそうな見た目のこの男は、ボロの布切れを纏っているだけだ。下半身さえほとんど隠れていない。
そして、露わになっている体は骨と皮というのもおぞましいほど痩せ細っていた。肌は黒ずんでいて、潤いというものは欠片もない。髪の毛はほとんど抜け落ち、黄ばんだ白色で、歯も半分以上は欠けるか、抜けている。
目はひんむかれていた。しかし白濁していて、とてもじゃないが使い物にはならなかっただろうと分かる。
「どうやら、よっぽどの奴だったんだな」
河津が口をへの字に曲げた。白鳥は男の体をじっくりと見分し、男の腹に古い傷があるのに気がついた。それから、彼が握りしめている錆びついた剣を取った。
「これ、分解して調べますかね」
「……剣を持っているような奴だ。よほどのゴロツキか、もしくは――」
「同心だ」
二人の後ろから冷淡な声が響いた。振り返ると平野がいる。彼女は男の亡骸を恬淡な様子で見下ろし、吐き捨てるように言った。
「この佐助は、かつて同心だった。今は職を失った、ただの無職だ」
「……どこでそれを?」
平野は後方に顎をしゃくった。
野次馬の中に、一人だけ困惑した様子の女がいる。壮年と評して差し支えはないだろう。どうやら彼女が、死んでしまった佐助を今朝まで世話していたらしい。おずおずといった感じで頭を下げていた。
白鳥が近付くと、濡れた顔にしわを作った女は、じっと佐助を見つめていた。まなじりに浮かんだ涙を手拭いで拭き、鼻をかんだ。
「ああ、佐助さん……」
それでも涙が止まらず、がっくりと膝をつきそうになる。白鳥が慌てて受け止めると、彼女は礼を言いながら、しゃくりあげた。
「彼のことを?」
「ええ、十年ほど前のことになりますが……うちの隣に越して来たんです。毎日お酒ばっかりで、それで、何とはなしに気にかけるようになって……」
「彼は同心だったそうですが?」
「よほど辛い目にあったんでしょうね。まだ五十歳なのにあんな姿に――」
女は白鳥の肩を掴んだ。一層悲しげな顔になり、嗚咽を漏らした。
「――重大な過ちを犯したって。自分には生きる権利がないって……」
「生きる権利がない? どういうことです?」
「分かりません。でも、覆しようもない事態に直面して、同心を辞めざるを得なかった、と言っておりました」
「彼がいつから麻薬を使っていたのかは?」
「いつからかは……。でも、最近、特にここ二月ほどは少しずつ量が多くなっていって、あんな有様に。止めた方がいいって言っていたのに、これだけは止められないって……」
「……彼に家族などはいました?」
「いいえ、結婚はしたことがないと」
白鳥は頷いた。誰かに死体を引き取ってもらわないといけない、と言うと、女が志願した。もちろんそのくらいはします、と彼女は請け負ってくれた。
異様な形相を浮かべた佐助の亡骸は、すぐに診療所へと運ばれ、そこで死体を検視して、問題がなければすぐに返却される。おそらくは荼毘に付されるであろう。まあ、付したところで骨が残るかどうかは、 その日の天気と炎の神様に聞かねばなるまい。
白鳥と河津は、早速、かつて同心であった佐助の家に向かった。
比較的近くにある。長屋の部屋の外観は整えられていて、おおよそあの薬物中毒が住んでいたとは思えない。家の中もまたしかり、である。
あの女は随分と世話を焼いていたみたいだった。台所には食べかけの煮物や握り飯が置かれているくらいで、ゴミの類は全く見当たらない。畳も、最近交換したばかりなのか、まだ藺の香りがした。布団も柔らかさを保っているようである。
「随分と清潔ですね」
「……女の苦労がしのばれるな」
「それにしても、ですよ。だって、いくら掃除したとしても、佐助が暴れまわったりしたら、どうしようもないわけでしょ? 壁に穴が開いていることもないし、どこかが壊れているわけでもない」
白鳥は難しい顔をした。
佐助が薬物の常習犯で、そういうものを吸う度に暴れているのかと思ったら、そうではないらしい。では、何故、今日に限って心臓が止まるほどの量を使い、暴れたのか……。
いや、発端をいえば、何ゆえ、二ヶ月前から使用量が増えたのか、というところに行きつくわけである。
「それに、彼が同心を辞めなければならなかった理由はなんでしょうね」
「……さあな。さっき聞いたんだが、近所での評判はさほど悪くない。薬をやっていたことは周知の事実だったみたいだな」
「暴れたり、意味不明なことを繰り返すことは?」
「無かったみたいだ。ほれ、腹に傷があったろ?」
「ええ」
「あれの痛みを和らげるために使っていたらしい。肉体的だけでなく、精神的にもかなり引きずっていたみたいだ」
「同心だった時に受けた傷でしょうかね?」
「さあな。でも、何年もあとになって狂うくらいには衝撃だったんだろうさ」
口内に苦々しい感覚が広がり、白鳥は顔をしかめた。
不意に、部屋の入口が勢いよく開いた。白鳥が振り返る。入口の脇にいた河津は、剣の柄に手を掛けていた。
「邪魔するぜ、おっさん。今日の――」
鼻歌交じりに入ってきたのは、明らかにゴロツキと分かる若者だった。二十代の半ばくらいだろう。見知らぬ人間の姿を見て、ぽかんと口を開けていた。
「あんたら……」
彼は白鳥の姿、というより腰に下がった印籠を見ると、咄嗟に逃げようとした。
だが、河津に阻まれる。彼は素早く剣を抜き払い、若者の眼前に鈍色の刀身を晒した。若者は素っ頓狂な声を上げて尻もちをつき、辺りを震わせるような悲鳴を上げた。




